老いのひとこと

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木曜日の教養講座はいつもの真宗のお坊さんでした。


何せ信心の道とは程遠いものなのでお坊さんのお話が好く咀嚼できない。


のべつくまなく縦横無碍にまさに立て板に水の如くお説教が繰り出される。


仏教に関する基礎知識が乏しいばかりに付いてゆけません。


例の「恋しくは南無阿弥陀仏と称うべし我も六字の中にこそ住め」の歌は親鸞が作った言われるが親鸞の和讃は4行仕立てなので此の歌は親鸞が作ったのではなく親鸞作の伝承と相成っているのだと話されるが信心薄き者にとっては理解できにくいのです。


しかし、何となく有り難きお話だと聞き入る内に本当にうとうとと有り難くなってしまう有り様。


解からぬなりに何となく有り難く良いお話として聞こえてきたことはお釈迦様は「行」を余り為さらなかった「行」はやらくてもよいと説かれたのだと云う。


どうしてかと云えば「行」を遣り遂げると達成感からか有頂天になりいわゆる「天狗」さんになってしまうのがよくないというのです。


出来もしないのにまた何も知らないくせに知ったか振りをする「天狗」さんは宜しくありませんとお釈迦様は諭されましたとお話しされました。


そして、お釈迦様は「天狗」にはならず「凡夫」のままでいられましたというのです。


何かわかったような気がするが実は何もわからない。


中途半端なもやもや感を抱きながら家路につきました。