2021-10-08 老いのひとこと 無断掲載 今日の新聞1面に明治の陶工諏訪蘇山の青磁が甦ったと伝えている。 無知の権化には蘇山の名は知るはずもない。 報道によれば諏訪蘇山は加賀藩士の子で明治6年(1873)に陶芸と学び九谷焼にも関わったと云う。 そして3年後の明治9年(1876)には早くも製陶工場を立ち上げたのだという。 その瞬間、わたしの脳裏に稲妻のように電波が走った。 若しかひょっとしてあの人物と関わってはいないものだろうか。 若しそうだとすれば目の覚めるビックな出来事に違いないと直感した。 早速、阿部甚十郎碧海の調べ物を紐解いた。 蘇山と碧海には年齢差が10歳、天保12年(1841)生まれの碧海に対し蘇山は嘉永4年(1851)で左程の違いはない。 蘇山と同じく九谷焼に関わった碧海は明治2年の年に現在の片町2丁目に当たる旧古寺町に九谷工場を設け華々しく開業したのだが海外輸出に失敗し倒産の憂き目を見てしまった。 それでも碧海は九谷焼振興に献身的に寄与し、内務卿大久保利通の掲げる「殖産興業」のスローガンに見事に呼応し明治10年開催の第1回勧業博覧会には多くの九谷焼を出品し成功裏に導いたのだと云う。 そこで問題は、朝刊が伝える核心の人物諏訪蘇山の初々しい作品が碧海の手により選別され博覧会へ送付されてはいまいかと云う事なのだ。 血眼で捜し求めたが遂に結論には至らなかった。 ネットと云うズボラな手抜き手法でことに当たっても埒が明かぬことになりましょう。 蘇山と碧海との接点を求めて玉川の近世史料館と県立図書館へ出向き我が足と手と此の眼で以って格闘いたさねばなりますまい。 さあ足を運ぼう、戦おうぞ。