老いのひとこと

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加賀百万石の城下町には「空から謡が降る」風情があると云う。


加賀宝生流の本家本元のような金沢の街なのです。


宝生流は5代藩主綱紀の頃より根付き重臣たちに持てはやされたと云う。


武士の嗜みは剣術ならぬ能楽であったのだと今日の県民大学大学院歴史講座の先生より教わった。


八家は元より人持ち平士に至る上級武士のみならず下級武士の与力にまで其の謡が浸透していたことを加賀藩与力中村豫卿がしたためた「起止録」と云う日記を通して其の生々しき実態を教えて戴いた。


嘉永5年正月の記録を見て唖然とすると同時に愕然とする。


謡を合わせて18回、碁を11回、将棋を4回、正月なので双六や歌がるたに笛や鼓などの芸事習い事にうつつを抜かす驚くべき実態を見せ付けられた。


兎に角、交友関係が広い来客がすこぶる多い、そして能くお喋りを世間咄( せけんはなし)をする。


与力は藩主直属の親衛隊如き武士集団にあるはずだ。


「起止録」の嘉永5年正月分に従えば其の間剣術の稽古は何と一度限りではないか。


いくら安泰の加賀百万石の治世下とは言えペリー来航を目前に武士としての緊迫度が全く見えない。


風雅な「空から謡が降る」風情も良いが此の言葉の陰には毒々しい現実が隠されていた。


 


嘉永5年は足軽の子島田一郎には御齢五歳を数える。


 


尤も、本日の講師の先生は中村豫卿研究の第一人者あられ斯くも軽薄なしかも下衆な言い回しとは全く無関係であるは言を俟たない。


此れは偏見に満ち満ちた独り善がりなわたしだけの邪見に過ぎません。


 


 


わが加賀藩明治維新の変革劇では脇役に甘んじたという。


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