老いのひとこと

本家のお墓を引き継ぐ栄誉に与かったが殊更あからさまにお寺さんに読経を営む仰々しい慣わしは一切執り止めにした。

樹齢数百年の杉の古木があたかも御佛供(おぶく)杉のように背後にデーンと控える。

ただ其の杉の木の前に我が墓地にくっ付くように一基の朽ち果てた墓石が横たわる。

気にするほどでも無いがやはり気になる。

安政二卯年に能路氏の手によりが建立されたことは読み取れる。

安政2年、1855年代と言えば当高橋家には高祖父高橋金之亟が養子に政乃丞を迎え後に名を精路と改めたわたしの曾祖父は妻楚登(そと)との間に長男勝太郎を儲けたのが文久2年(1862年)なら丁度その頃と相成ろう。

片や姓が能路に対し名が精路と奇しくも野田山墓地の後割甲の地番1458-3の隣り合わせに能路為次と高橋精路が肩を並べて実在した事が判明した。

 

実は能路の姓を探索いたさんと玉川図書館近世史料館の門を叩けば図らずも同姓の能路為次を確認し由緒書を閲覧できたのだ。

能路家の家系

為次―父小左衛門―祖父孫次―曾祖父孫右衛門まで読み取れた。

従って今や倒壊し果てた此の能路家の墓には斯くなる人物が祀られよう。

縁も所縁も繋がりも在ろう筈のない精路家と能路家のお墓のことを少し調べみることにした。