老いのひとこと

高橋家の墓地にべったりくっ付くように能路家の朽ち果てた残骸が姿を留める。

ところが能路家ではなく能路氏と刻まれる墓石は恐らく為次の父能路小左衛門が亡くなる2年前の安政2年に建てたものと推測できる。

此の安政2年時点では為次は若干13歳の少年で父と共に此処後割甲の地でお爺さん・ひい爺さんに手を合わせたことになる。

そして其の真横に墓地を営む高橋家の当主政乃丞(のちに精路と改名)は由緒書で換算すれば安政2年には24歳の青年であった。

それ以来、能路と精路は背中合わせで墓地を営んだ。

少なくとも安政・万延・文久・元治・慶應・明治へと藩政期末に此の両人は少なからぬ人間関係で結ばれていたような気がしてならない。

既に無縁仏となって久しい能路家ではあるが悠久の年月を経て今なお何らかのご縁があるような気がしてならない。

 

蛇足ながら近世史料館で閲覧した能路為次の明治4年作成の由緒書の冒頭に目を遣れば

年中御切米高

拾弐俵三斗九升弐合

と余りにも詳細過ぎるではないか。

そして、歳弐拾九とある。

 

 

片や高橋政乃丞精路の文久3年作成の由緒書には

年中御切米高

弐拾俵

と似たり寄ったりの軽輩同士の足軽同士、日頃気の合う間柄で在ったようなそんな気がしてならない。