下手糞老いぼれ剣士の独り言

末岡敬正先生を偲んで=前編

此の歳まで曲がりなりにも剣道の真似事を享受できるのも、此の末岡先生のお陰なのである。随分昔の事には違いはないがわたしにはほんの少し前の出来事として思い返される。・・・
ましてやブログとやらをもてあそぶ此のわたしをみてうっすら苦笑されているようだ。

その一 剣道との出会い

 末岡家の本家の裏手に先生の住まいがあった。居宅に隣接して日吉神社の境内が広がっていた。
 昭和三十四年の春、初任したてのころ一週間の分校勤務を終えたとある土曜日の昼下がりに先生は私に挑戦してみないかと含み笑いを浮かべながらそのようにいわれた。

間を置かずに先生は防具の一式と竹刀を差し出して着装しなさいという。もちろん胴着・袴なしの異様なる出で立ちであった。

 そもそも私と剣道との馴れ初めはこのようにして成り立ったわけだ。剣道が竹刀競技として復活した昭和二十七年のころ先生は金沢美大にて技を磨かれたらしい。どうも腕試しの対象に私が選ばれたのかもしれない。
 現代剣道というよりかっての剣術に近い柔術紛えの体術に重きをなす技だったように記憶する。
軽快なる竹刀捌きと体捌きで私の無鉄砲な打ちを見事にかわされた。足を絡め私の体制を崩し私から竹刀を奪ってしまったのだ。
 当時の記憶は定かではないが境内には樹齢何百年とも思しき欅の大木が林立していたような気がする。杉や銀杏の大木もあったはず。
 小半時ぐらいも経ったのだろうか、足腰が立たぬくらいに疲労困憊し果て散り敷く落ち葉の絨緞の上に大の字にぶっ倒れてしまった。完膚なきまでに打ちのめされた。
無様なる惨敗ではあったが以来二十年以上の空白の年月があったとはいえ私と剣道との因縁の結び付きが紛れもなくこの末岡先生により齎されたことには違いがないのである。心より感謝しなければならないのである。

その二 愛刀清秀
 
勢州つまり伊勢の国に住んだ古江清秀と称する刀匠が明治三年正月に鍛え上げた刀身六九・四センチの日本刀が拙宅の床の間にある。家宝なのである。
 反りが一センチのまさに直刀であり、身幅は実にしっかりとしていてずっしり重い、刃は品のよい直ぐ刃で今以って研ぎ知らずの初なる刀なのである。
 さぞかし維新の動乱期には重宝されたことだろうと推察したりもするが、血のりの痕とてなく、その意味からしても初なのである。
 先生は奥さんに内緒で、当時の金額にして二万円で私に譲ることを決意された。日本刀への美術的価値が見出され隆盛を極めつつあったご時勢だったので格安の買い物をさせていただいたことになる。
 長らく愛用したがなにぶん樋が入っていないので一・五キログラムに近い重量は年齢とともに負担に感じ、同時に鋭い刃音がしないことも手伝い現在は用いることは余りないのである。
 もう一振り、美濃の国の刀工であった兼重が鍛えた六三・七センチのやや小振りの刀も先生より戴いている。ただ同然の五千円だったことを覚えるのである。
 もっともこの品物は軍刀仕込ではあったが、正真正銘の鍛錬刀で刃紋が丁子乱れの実に品位の備わった作品であった。もちろん人を殺傷した痕跡は微塵たりとも見当たらないのである。
 末岡先生からも美術品として十分に通用すると判断して戴いたこともあって、昭和六三年に私名義で石川県教育委員会へ届出て新規登録を済ませたのである。
 軍刀とはいえど粗製乱造されたころのものとは違い、昭和の初期に丁重に野焼きされたものだと聞いたのである。この二本を先生より拝領したことになる。

その三 居合いとの出会い

 昭和三四年の最初の年だったか翌年だったかその記憶は定かではないのだが、末岡先生よりあなたも居合いをやらないかと誘われたのだ。
 当時は県庁裏手の丸の内に県立体育館があって、その四階に道場が同居していた。
 先生が私を紹介した主がそれほどの大人物であったとはそのときは皆目知るよしもがなであった。
 白髪の穏やかな風貌のどちらかといえば小柄な方とお見受けした。紛れもなく当時日本国の居合い道界に君臨される大御所たる政岡壱実先生に違いがなかった。
 無双直伝英信流の第十八代範士そのものであり、斯くの如き神様同然の人物の拝顔に及んだことは極めて栄誉としなければならないことなのだが、愚鈍なる盆暗者の私には深い感慨とてなく、唯ぽつねんと時を費やしてしまっていた。
 今にして思えば、もっと真摯に貪欲なる心構えで事に当たれば随分異なった展開がみられたのかも知れない。
 いずれにしろ末岡先生はこの半端者を事もあろうに政岡先生の前に引きずり出してくれた張本人であり、その意味ではとてつもない好人物であられたわけだ。
 居合い道での敬正氏の名前は実兄一益氏と並び末岡兄弟の名として県下では知る人ぞ知る存在であられた。
 決して段位や称号にこだわる事無くあくまでも実力の涵養にのみ邁進されたこの時代実に稀有なる武人であられた。
 実力とは言うまでもなく切れる居合いに他ならない。その現場にこそ立ち会ったわけではないが先生はよく我が家の竹藪にて孟宗竹の青竹を無造作に切り離して稽古に励んだものだと口にされた。
 嘘か真か知らぬことだが野良犬を一刀両断に切り伏して食らってみたら殊の外美味かったよと大笑いしながら冗談口をはさまれていたことを思い出すのである。
 昭和四八年には全日本古武道大会が日本海博覧会に協賛する形で西部緑地公園特設会場にて執り行われた。この折にも先生の取り計らいで事実末席を汚しているのである。
メンバーには武田清房・土井輝男の両八段保持者をはじめ既に今は亡き阿地知文男・角吉則両先生らの名も連ねているのである。何故かしら中村正人先生の名が見当たらない。
 居合いという、先生から戴いたせっかくの高邁なるご配慮に沿って、従順に錬磨研鑽を地道に積み重ねていたならばと回顧の念を今改めて新たにする次第である。後悔臍をかむようなことをいくらいっても仕様のないことなのである。
 しかし、私と居合いとの一人だけの付き合いは細々ながら今も続くのである。
 
その四 切れる居合い
 
日本刀は人を殺傷するための道具に違いない。切れて当たり前のようだが実際にはなかなか切れないのである。吊るされた一本の木綿糸や紙片を丸めた紙筒を切り離すには相当の熟練を要するのである。
 分校生活のころ先生は一度試された。よほどの自信がなければ出来るはずのないことを見事やってのけられた。流石なことと感心した。少なくとも私には出来ないことであった。まったく歯が立たなかった。
 先生の居合いは気負いなく静かに抜き放され切り下ろされた。むしろ女性的にさえ映った。言うまでもなく手の内が理に叶い刃筋が決まっているのである。
 居合い同好の有志が長土塀小に集い定例の稽古会が持たれていた。校庭の中庭に繁茂するバショウの樹を間引く意味合いで処分するのだということで参集した。
 幹は優に五寸はあったであろう。みなが試みてみたがなかなかうまくいかない。諸手の袈裟切りではない。
抜き打ち様の初発刀で横一文字に切り放つわけだ。なかなか切れたものではない。
私も正座の姿勢から教わったとおり、序破急を意識しながら切っ先三寸の鞘離れに十分留意し斬り付けたが駄目なのである。切り口が醜く波打っているではないか。
先生から力ではない、手の内の冴えであると言われたことを思い返すのである。さすが先生の無造作に抜き放された寸分の狂いのない滑らかなる切り口を見てみなが大いに感嘆したのである。