下手糞老いぼれ剣士の独り言

末岡敬正先生を偲ぶ=後編

東京電力原発汚染水を断わりなく太平洋へ垂れ流したことが国際的にも問題視されたわけなのだが、考えてみれば先生のお名前を無断でインターネット上へ流した事は軽率さの謗りが免れないと判断するに至り即刻奥様へ事後承諾を願い出た次第なのである。


その五 堰堤にて遊ぶ
 
堂との中間点に堰堤があった。北電の導水管を管理される吉田さんが常駐されていた。先生は不在の折はともかく一言断りを入れて付近を探訪された。よく私も同行させてもらった。
 一週間の勤務を終えて小原のバス停まで三々五々歩みを取った。四季折々に咲き誇る草花を愛でながら屈託なき清らかな小鳥たちの囀りを肌で感じながらそぞろ歩いたものだ。但し、言うまでもなく風雪つのる厳寒のころはみなみなただ父なる大自然にひれ伏すのみであった。
 堰堤を渡ったところに先生の秘密の番場があった。山肌に這いつくばうように急斜面を登り詰めるとまさに天然のわさびが自生する箇所に到達した。
 おもむろに採集した。幼根を戒めた。先生は何よりも乱獲を戒められた。親指大の大物も混じっていたが何と言ってもセンナと称した葉と茎の部分が珍味であった。
 春浅き残雪の山からの最初の贈り物に違いがない。奥さんより伝授された調理法は今でも忘れはしない。
 また、そこはカタハの群生地でもあった。土地の方々とて知りえぬ箇所らしくとほうもなく大きく生育していた。小指ほどもあるみずみずしい逸品であった。秋が深まるころまで収穫したように記憶するのである。更には沢蟹を捕獲し、そのから揚げの味はなんと言っても絶品であった。
 秋も深まり色づく木の葉がだんだんさびしくなる頃合いを見計らいジュネンジョ掘りにもよくいそしんだものだ。この付近は河岸段丘状の地形なので大きな石ころが重なり合って地中を深く掘り下げるのには極めて好都合であった。
 はたまた、この地はナメコの宝庫でもあった。多分これは天然産とは思えずあるいは何人かにより菌糸が植え込まれたものかもしれないのだが主知らずに繁茂し朽ち果てゆく分も多くあったりしたので、先生は勿体ないので戴いておこうと拝借に及んだことも確かあったのだ。
 この時に至り思い起こせば地権者の断りなく採集に及んだことは若気の至りとは申せやはりこの上なく申し訳ないことと存じおる次第なのです。

その六 見事なるセンナの自生地
 
当時はまだダム湖はなかった。内川ダムの工期は昭和四二年から始まるのでまだ内川の清流がとうとうと流れていた。あの時代には岩魚釣りの太公望の姿は終ぞ一人も見たことがなかつた。
 渓流釣りブームの到来も高度経済成長の時代まで今少し待たねばならぬし、また山菜採りに押し掛ける群衆が車を連ねて侵出するのももう少し後のことであった。
 大自然の懐に抱かれるように堂の集落があった。全てのものが静寂の真っ只中にあった。静寂そのものであった。
ただ耳を澄ませば内川のせせらぎと梢に舞う小鳥たちのさえずり、そして空を吹き渡る風の音が至って心地よい。
堂大橋を渡って小原に向かって程なく下った地点で先生は足を止めた。対岸へ渡るのだという。橋などあるはずがない。しかしそこに小原の発電所へ供する導水管が横たわっている。堂の発電所で用いた水を下流の小原で再度利用して発電するという水路式発電の仕組みがあった。
水管は一メートル以上の太さはあったであろうが上は丸い。渡るには平衡感覚が試されるのだが先生は平然としかも悠然とした態度で渡られたので、私らとて続いて渡らぬわけには行かなかった次第だ。とにかく先生は身軽で実に軽快であった。
そこに兜山から流れる大きな谷が形成されていた。この谷川沿いに登り詰めたところで我らは大いなる感嘆の声を発せざるを得なかった。
見事なお花畑が目の前に忽然と現れた。春浅く、あちこちにまだ消えやらぬ残雪が点在していたのだが既にわさび菜には待ちきれずに一斉に純白の花を咲かせてしまったのだろう。
淡き緑の葉柄の上にこれまたより淡き白色の可憐なる花を頂いている。それが所狭しと辺り一面に群生しているではないか。峪筋に沿ってはるか頂まで続くのである。圧巻というより他にない。
この内川の地の豊穣たる自然の恵みを唖然たる面持ちでしばしの間立ちすくんだ。
末岡先生は惜しげもなくこの素晴らしき情景を私に提供してくれた実に気前のいい好人物に他ならない。

その七 名人級のきのこ狩り
 
どこの山へ行っても先生は自分の家の裏庭のように闊歩された。東西南北の方位を見定め山の地形を瞬時にして自分の頭へインプットされた。
 視力と云おうか色覚と言おうか、それとも嗅覚といってもよい、とにかく人間わざとは思えない動物的勘で見つけられた。誰しも太刀打ちできるものはいなかった。
 山野を駆け廻り、山野を手懐け、山野と対話されたのだろう。それ以上に山野を愛で山野と共棲された人であられた。
 スーパー林道が全面的に供用開始されてから間もないころだったと記憶する。先生から久し振りに行って見ないかと、きのこ狩りに誘われた。
 車窓より周りの景観に目をやりながら通り過ぎることこそあれ、まさかそんな箇所で車から降り手付かずの原野に足を踏み入れる発想は普通の人には出来ないことなのだ。
 三方岩の駐車場を過ぎ県境を少しばかり下り始めた当たりで先生は車を路肩に入れて最徐行しろという。左斜面に目を凝らしながら、この辺が面白そうだという。紅葉の時期も過ぎシーズンオフだったせいか通行車両は多くない。もちろんそこは駐停車の規制もない。
 急な斜面をひたすら降りた。まだ生い茂る夏草のブッシュを避けながら進むにつれ、やがて雑木林の喬木の類がことごとく伐採された箇所に出くわした。樹木の残骸が累々と積み重なって、目を凝らせば明らかにきのこが生息しているではないか。あるはあるは無尽蔵に近い。
雑コケには違いがないがサクラモタセという最高級なる代物であると先生は解説されていたことを懐かしく思い出すのである。
 さすがの先生もこれは凄いと感歎の声だ。ブナの大木の切り株には天然なめこが鈴なりに盛り上がっているではないか。
 コケ博士ならではの離れ業だといえまいか。得難き体験を戴いたことに感謝するのである。

その八 逝去の報に接して
 
詳しいことはまったく知らない身であるが先生は長らくパーキンソン病を患われた。原因が未だ不明の難病奇病であるという。およそ二百年前にイギリスの医師パーキンソンにより報告されて以来、その間の目覚しい医学の進歩にもかからわず取り残されてしまった極めて厄介な病であるのだという。
 ところがこの事実を知るに至るのは先生の病状が最悪の事態にまで悪化し完全に病床に伏されし後のことであった。
 何度かお見舞いしたが何ら為すすべもなく心ならずも長居は無用と早々にお暇せざるを得なかった。
 五感のうちかろうじて聴覚にだけに望みを託された。奥さんからの呼びかけにだけは反応され“わかった”“理解した”の意思表示は指を丸めてOKのサインで答えられていた。
 ある日に見舞った折、私の訪問に了解の丸印を示したあと心なしか先生は私に手を差し伸べられたようなしぐさを示された。少なくとも私はそのように感じ取った。
 私はおもむろに先生の手を握り返していた。大きくて暖かく、しかも柔らかい手であった。その時点では、何よりも生命の源が依然として脈々として活動している証を私は自分の肌で感じた次第だ。
 以前、持参した野鳥のさえずりを収録したカセットテープに先生は心地好く耳を傾けられるていると奥さんからもご子息さんからも窺がって、私とて心より安堵した。
 およそ半世紀近くにわたり先生から何やかやとお世話を戴いた。そのお礼のためのお返しが、このような形で最後に為し得たことは本望としなければならないのである。
 
 先生は無類の愛妻家でいられた。小原から菊水分校までの道すがら、先生はよくよくお惚気話をされたものだ。
 先生が正真正銘の真実の愛妻家であったその何よりの証拠が奥さんからの実に献身的な誰しも真似することが出来ないような素晴らしい献身的看病により見事証明された。
 奇しくも三月三日のひな祭りの日を選ばれた。こよなく愛した息女と共に家族みんなのうたげで大好きだったお酒を心行くまで飲み交わした往時の楽しき一時を思い起こしながら逝かれたことだろう。