老いぼれの独り言

イメージ 1
 
 
 先日、菊水時代の中村利雄君と55年振りに再会した。
 専修大で学業を修め首都圏を拠点に幅広く活躍なされていたのだが御高齢の母上樣看護の為久方ぶりに郷里へ舞い戻られたのだという。
 都会人らしく節々に洗練された仕種が見え隠れした。
 しかし、実直そのものなるお人柄はむかしと何ら変わってはいなかった。
 兼六園に隣接する料亭「さくら亭」に招待され豪華なご馳走で歓待を受けた。
 勧められるままに美酒にも酔い痴れた。
 ハンドルを握る関係で返盃を強いるわけにはゆかなかった。
 利雄君にすれば唯一の朋友下田俊勝君は既に他界し去り往時を振り返りつつ二人で御霊を偲び合った。
 
 敢えてわたしは、今再び55年昔の彼らとの関わりを既発のブログ文で蘇らせてみることにした。
 
 
その1
311被災地における地縁集団というべきコミュニテイー社会の絆の強さがよく話題となり国際的にも日本人の公序良俗の善さとして評価されていた。
 昭和三十年代の此処菊水の地は家屋は萱葺きを旨としていた。 
屋根の葺き替えには集落上げて善男善女が参集し無報酬で奉仕した。
 実に微笑ましき共助のしくみがあった。長老から、これぞ「ユイ」なのだと教えを授かったことをよく覚えている。
 其の菊水の地では血縁も地縁もなき存在の此わたしが一生忘れがたき深き恩義を授かってしまったのです。
 其処に住むもの同士の絆で繋がっていた不思議な縁・・・ 
みんながみんなのために力を合わせて団結協力しなければみんなが生きてはいけないことをみんながよくよく理解し合っていた。
 菊水はよいところでした。素晴らしいところでした。
忘れがたき第二のふるさとなのです。


スキーと骨折

 冬の日の放課後ともなれば、子どもたちはよく菊水ゲレンデでスキーに興じた。
もっとも、地形的に周囲は山々に囲まれている小盆地なので、平坦なるスロープは望みようがない。
 ジャンプ台のスロープのような雪面を一気に直滑降で滑り降り、パラレルにて急制動するのが、何ともいえぬくらいにスリリングで面白い。
 にわか仕込みの幼稚な技術の持ち主でしかない私は、その時一段と高い箇所から愚かにも滑り始めた。
加速した状態のまま制動のタイミングを逸し、新雪の中へ飛び込むや否や激しく急停止した。
 一瞬、足首に痛みが走った。ヤッター!やってしまった!
 最悪だ!茫然自失。全身より血流が抜けた。観念せざるを得なかった。
 中村利雄は逸早く、私を背中に背負い学校へ担ぎ込んでくれた。
深雪の中1キロメーター強の道程は屈強な大人でも敵わぬことを利雄は難なくこなしてくれた。
既に、右足首のくるぶし付近に腫れとしびれの混じった鈍痛を覚える。
 夜半過ぎより、益々痛みが増し、幾度となく湿布が施された。
沢田先生の好意に頭が下がる。
 隣の部屋では深夜をも厭わずに、壮年部の有志が集い善後策を講じている。明朝、夜明けを待たずに下道で小原まで出ようとの相談内容が襖越しに私の耳に入った。
 堂町経由で小原に至る下道に対し、後高山を山越えして獅子吼高原を経由して鶴来町に至るルートを上道と称した。
下道には雪崩の危険性が伴うが、気象条件等を勘案し身の危険を回避できる可能性を話し合ったのだろう。
その間、同時進行的に音もなく深々と山雪が降りしきった。
 町内の壮青年部総員二十九名がすべからく事に当たるという、一大事となってしまった。
町を挙げての救出活動となった。予想以上に雪は深かった。
 先導する若者たちが数人、越し板でラッセルするが、電柱と電柱の間を行くのが精一杯でラッセル隊は繰り返し繰り返し交替しながら前へ進んだ。
終始、無言の行列。終日、パントマイムが続いた。
 体力の浪費を極力避けながら力の配分を考慮した極めて合理的な村人たちの生きるための知恵を知った。
 後続隊が、更に雪を踏み締めた後を担架に担がれた屍になりかけたような私が最後尾に位置した。
 とどまる事を知らずに降りしきる無情なる雪。その新雪以上に恐ろしいのが雪崩とりわけ泡雪と称する表層雪崩だ。
 男衆は細心の注意を払いつつ、ただ黙々と声もなく静かにゆっくりと一歩一歩前進した。
夕暮れ頃、ようやくにして小原に到着し、最終バスに間にあった。
 平和町の市民病院外科に入院、一ヶ月あまりの休職が余儀なくされた。
その間、本校より田地先生と富田先生が補欠として分校まで赴かれたと聞く。
 私の一方的な不注意と慎重な配慮を欠いた行為が多方面に亘り、かくも大勢の人たちに迷惑をかけてしまい慙愧に耐えないのである。
 今更のように二十九名に余る尊き町衆に篤い篤い恩義を強烈に抱く次第なのだ。
 計り知れない、莫大にして巨額の借りを返さねばならないのだけど為す術がない。
申し訳がない。この一生の借りを一生掛けて如何にして償うべきか・・・
すでに、よわいは八十に近付いてしまった。
 
その2     
戦後の一億総飢餓時代には日本人は一丸となって血眼になって働いた。
 日本人は腹いっぱいに飯を食いたいという共通目標で一つにまとまっていた。
 ところがどうしたことか、機械化が進み米余り時代へ急激に突入した。
 作付けが制限され、休耕田が国土を覆った。
 日本人の生き方や価値観が多様化していった。  何かしら皆ちりちりばらばらの感否めずまとまりを失ってしまった。
 何かと異常さが目立つ日本国になってしまった。

 この休耕田に太陽光発電という奇抜なる最先端時代に戸惑いを感じながらも置いてきぼりを食わされないように、老いぼれとて懸命に付いて行くしかない。


田しごと

 堂の集落を過ぎて間もなく堰堤に達し、この付近より少しずつ視野が広がり菊水平野と称する開けた平地にさしかかる。
 春も深まりつつあるこの時期、田起こしの作業風景が、其処此処で行われて然るべきで在るにもかかわらず、何故かしら目にする機会がなかった。
 いつものように月曜日の朝方には子らと共に学び舎への道を急ぐとき、ふと目をやると、片隅の田の中にかすかに動く物体を見出した。
 近付くにつれ、その物体が人体であり拝顔するまでもなく、その姿より中村利雄の両親であることを現認した。
父さんであるトウトが鋤を引き、母さんであるカカアが操る。
 腰まで身を沈め、あたかもスローモーションビデオの再生画を見るが如くに黙々と前へ前へと進み出る。
 早春の雪解け水をたたえる湿田の中で、人間対大自然との凄まじき格闘が、今まさにそこに展開されていたのだ。
 その光景は、私にはこの上もなく崇高なものに映ると同時に、何とも言い難いうら悲しき感慨に胸が締め付けられてしまった。
 敗戦の憂き目から抜け出し復興のための槌音が日本国中にこだましていた。
日本農業は畜力に変わり機械化農業が華々しくデビュウし始めたというこの時に於いて、あたかも戦前にタイムスリップしたかのような時代錯誤的な光景を目の当たりにしてしまったのだ。
 都会育ちの若きボンボンにとっては、この衝撃は正直言って計り知れないものがあった。
 とにかく、わが目を疑った。こんな現実があって然るべきなのかと、つくづく思った。
 心なしか虚ろにして、淋しげな、はたまた若しかして悲しげな面立ちにも映ったような気もした。

 しかし、なんと言えどもこの生々しき情景には、人間お互いに協力し合うという実に見事なる素晴らしき場面が幾重にも散りばめられていた。
 実に見事なる素晴らしき夫婦愛の場面ではなかろうか!
 これほど確かな、生々しく生きた教材はどこにあろうことか。
生徒たちもことさら改めて、この光景を目に焼き付けたことだろう。

 しばしの間、辺り一面が無言のまま終始した。耐え忍ぶように通り過ぎる私らとて同様だった。
 しかし、この厳粛なる現実に決して目を背けてはいけない。

 後で気付く事ながら、田起こしの情景を見受ける機会がほとんどなかったことに関し、若しやその行為を、忌み嫌うかのように人目を憚って行われていたのだとすれば、これほど胸えぐられるやるせないことはない。
 しかし、今真摯に顧みるに太古の昔より農耕民族として誇りを持って生きてきた我等日本人が斯くなる神々しい光景を只単に座視し傍観者的な立場で評論するなんて、これほどの不謹慎なことはないということに遅ればせながら気付いた次第だ。
 菊水町に関わる大勢の方々に対し衷心よりお詫び申し上げねばならない。
私の意とするところを是非汲み取っていただきたい。
 只ひたすらそう願うところである。
 ご理解していただければ、これほどうれしいことはない。

その3
二人のこと

 私にとって最初の卒業生は下田俊勝と中村利雄の二人以外にはいない。
共に支え合い励まし合いながら切磋琢磨した間柄だっただろう。
ある時には共に手を取り合って歓び、また義憤の涙に暮れたこともあったろう。
 男同士の二人は友人であり仲間であり同志でもあったろう。
謂う所の好きライバル同志に違いない。お互いに相互を意識しあい、良きにしろ悪しきにしろ終始、影響し合った事でもあろう。
 私は今でも、あの場面でのあの光景を忘れることはない。私の教卓の前に二人の机が並んでいた。
教科は忘れたが、多分数学か英語であったはず、私の質問にTは難なく答えた。
横のTに同じく尋ねたが、難解だったのかTからは暫し返答がなかった。
 Tは大きくわが目を見開いたまま私を凝視していたが、間もなくして彼は大粒の涙をとめどなく頬を伝わせたのだった。
拭おうとする素振りは微塵足りとも示さなかった。
 その涙は何を意味したのか。私には痛いほどその心中は窺い知り得た。
二人は競って猛然と勉学に勤しんだ。
二人は難関市立工業高校定時制へそして全日制金沢高校へ見事進学を果たしたことは何を物語るのだろう。
 とは言うものの、この硬直した幾ばくかの時の経過の後TがTにヒントを授けるという行為により、緊迫した場面は解消した。
新米の私には逸早く適正な処置を執り得なかった事を極めて情けないこととして今以て悔いている次第なのだ。


 下田俊勝君が先に逝ってしまった。
 還暦を迎えるやいなや、これからというときに早すぎたお別れであった。
 加賀電子に入社し、当時にしたら最先端技術の真っ只中を切り開いた人物に他なかろう。
 当時、疎開モンと呼ばれた。
卒業の祝いに一握りの干した薇を母子共々お揃いで届けてくれたことを鮮烈に思い出す。
 新聞紙に包まれた掛け替えのない誠意の結晶を恭しく拝み取った。
卯辰町の山間にあった静居を訪ね、焼香をさせていただいた。          合掌
                               

 利雄君お元気ですか。
 あの冬の雪原にて君の背中に背負われて宿舎まで届けてもらった遠い遠い道のりを忘れはしません。
 君の広く逞しき背中の感触とともにやはり忘れ難き思い出です。
 風の便りに何かいいお話ありましたら是非聞かせてください。
今まさにその再会の喜びに浸っているのです。
2013,4,23記す