うらなりの記《45》

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父忠勝
 
 父はその道の頂きを極め勲五等瑞宝章の栄誉を得た。
 わたくしには、その父と肩を並べる当ては何処にもない。
 考えあぐんだ末に、異様なる思い付きに辿りついた。検体なのである。
 我が五体を提供して一枚の紙片に在り付きたいと願った次第なり。
 馬鹿げている。
 笑止千万だ。
 馬鹿も休み休み言えだ!
恐らく妻子より異論百出だろう。
 でも、わが父ならば納得してくれそうな気がするのである。
 親父よさらば、いずれ参ります。
 
その三 父高橋忠勝(24)
 
まとめ=その2
 
 退職後、此花町公民館で主事として、父なりの社会貢献を立派に果たした。
 その間、若草町にて本家を継いだ利治・恵美子と共に余生を享受した。
 しかし、不幸にして胃潰瘍を患い、 弥生町 の佐伯病院にて患部の摘出手術を受けたが癌細胞の発見を見落としたことに起因して、昭和四十四年三月五日午前七時十分に金大付属病院にて胃癌ために命を落としてしまった。享年六十九歳であった。
 早すぎる死であった。
 この命日の日に忠勝は時の内閣総理大臣佐藤栄作より勲五等に叙せられ瑞宝章を授与されたのである。栄えある事なのである。
本家利治家の座敷の間に装飾された額縁と共に掲載されている。また、善行寺住職により定期的に読経を戴いている。利治・恵美子両人に深く謝意と共に敬意を表したい。
 野町一丁目の妙慶寺にて葬儀を営んだ。ここはかっての蛤坂でもあった。
 父忠勝の祖父たる高橋精路が楚登と共に居を構えた所縁の場所でもあった。
 野田山の高橋家墓地にて釋勝良の法名で眠っている。