津田家のルーツを辿る≪9≫

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9 津田内蔵助正行の実子斯波(津田)淳六郎(じゅんろくろう)のこと
 
 聊かくどいようだがわたくしの母方のひいひいお祖父さん(高祖父)に津田清三郎近猷なるお人がいました。
 此の清三郎の実の弟さんに津田音五郎という人物がいたのです。
 この音五郎は前田の殿様の家老職を勤める津田玄蕃家に養子縁組いたし玄蕃家11代目の御当主にまで大出世なされました。
 音五郎は名前を津田内蔵助正行と改め、玄蕃家の正統なる嫡出子である津田正邦(斯波蕃)の養父として正邦を確と養育した。
 つまり、内蔵助正行の養子に正邦がいて実子に淳六郎がいたことになる。
 津田玄蕃家12代目を継いだ正邦は斯波蕃を名乗り明治の世を迎えるに至る。
 淳六郎は斯波蕃の養子となり終生斯波淳六郎の名を貫き日本国の近代化に大きく寄与したのです。
 少なくとも、此の淳六郎とは薄きに薄いながらも遠くにして遠き御縁が無きにしも非ずと云えまいか。
 此の史実に恐れおののきひれ伏す想い募るのみなのです。
 
先に戻って、斯波蕃の義弟斯波淳六郎とはいかなる人物なのか。
斯波淳六郎は外でもない、我らが津田清三郎近猷の弟音五郎こと人持組津田玄蕃家第十一代当主に当たる津田内蔵助正行の四番目(三番目)の実子なのである。
文久元年(1861年)に生まれ昭和6年(1931年)までの七十年の生涯であった。
金沢英学校と東京英学校で学び明治16年には東京大学法学部を卒業する。
その翌年にドイツへ留学しベルリン大学で国法、行政法国際法を修業し四年後に帰国した。
そして、法科大学教授になるがその後は法制局や内務省社寺局、宗教局、神社局にて夫々局長職を相務め、もっぱら官僚畑でその手腕を遺憾なく発揮した人物なのだ。
これは、東大出版会が1981年に出した「戦前期日本官僚制の制度・組織・人事」を参照したことで嘘偽りなき真実なのです。
更に驚嘆に値することに、この斯波淳六郎の妻なるものが現参議院議員山東昭子の遙か遠縁に当る「毛登」なる者であった。
幕末から明治にかけて山東直砥(なおと)(一郎)が北門義塾なる英語塾を主宰し子弟を養成したという。
此の人物が山東昭子の曽祖父に当たるのだというのだ。
河野鐡兜(てっとう)なる勤王の漢詩人に学び、高野山にて僧侶となる。
後、蝦夷地、長崎、京都を往来し坂本龍馬とも親交があったという。
そして、樺太開拓に従事し更には神奈川県參事、一時には陸奥宗光らと組み自由民権運動に狂奔し明治政府転覆にも与かったが晩年には癇癪(かんしゃく)病を患い失神したり火だるまになって顔面を焦爛(しょうらん)させ、その治癒に恩義を感じてキリスト教を信じたりもしたという。
詩書を善くし一家を為するに足る人物だったという。
明治3年に「毛登」なる長女を儲け斯波淳六郎の下へ嫁がせたのだという。