老いのひとこと

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去年の失敗作



今年の「野焼き」が今週の五日六日に迫った。


初年兵の昨年は何にも為す術なく遠巻きにただ立ち竦めるだけで終わりました。


さすがに今年はそんなわけにはゆきますまい。


何らかの形で積極的に関わり合わねばなりますまい。


その意気込みこそは持ち合わせるが返って八十の年寄りは足手纏いになりかねまいか。


とは言っても、現場で指示待ち人間になっていても仕方があるまい。


でも、それにも益して年寄りが出しゃばり出るのはもっと好くない。


兎に角、参加することに意義があるのでありましょう。


 


恐らく、太古の縄文弥生の時代には集落挙げて老いも若きもみんなが集いて土器を焼く一大祭事になったのでありまよう。


その古式に則って野焼きの儀式は執り行われるのでありましょう。


然すれば、その古式にある通りに年寄りたちの役割分担があったはずだと思う。


其れを古老たちに問い質さねばなりますまい。


5日の土曜は昼飯に水筒と軍手の他に何をこそ持参いたせばよろしいのでありましょう。


内灘海岸へ9時半までに集合いたさねばなりません。


 


土を捏ね土と戯れ、やがて土に帰り無とならなくてはなりません。


でも土は泥となりまた粘土に生まれ変わるのでしょうか。


輪廻の不思議を感じます。


此の厳粛なる野焼きと云う儀式に参列できる身を嬉び、併せてその我が身を祝福いたさねばなりません。


何ゆえならば、此の度は晴れて此のわたくしがいずれは納まるべき骨壺が生誕する一大祭事に外ならないのであります。