上流階級でもごく一部の富裕層なら直筆の肖像画に仕立てたであろうがこと肖像写真に関しては一般人各層にまで普及していたのでありましょう。
たかが足軽分際に過ぎぬのに随分と一世一代の大判振る舞いを決意したことになろう。
羽織る紋付は新調のようだし其の家紋は紛れもなく鬼蔦紋だ。
おまけに(30cm×44cm)の印画紙はまるで絹布のようで此の時代には既に絹目印画紙が市販されていたのがわかる。
余程、勝太郎じい様は家長の威厳を後世に留めたかったのだろう。
此の際は、祖父勝太郎のたつての願いを慮り裏打ちを施して補修し縦長の扁額に納め家宝として末永く保存いたさねばなりません。
思いを致せば此の肖像写真の当地金沢での元祖に当たる本家本元筋が図らずも、何んと驚くなかれ遠藤高璟であったではないか。
高璟は写真とは申さず真写と呼んだ、高璟は真写の方法があることを兼ねてより論じ、やがて真写の時代到来を早々と予告していた。
更に、1850(嘉永3年)には三男遠藤勧三郎は
父高璟と母定の肖像写真を真写法で制作しているのです。
肖像写真の当地での先駆者は遠藤高璟に外ならず、大野弁吉よりほんの僅かだが先んずるのです。
不思議な因縁です、高璟の真写術があったらこそ勝太郎の肖像写真が焼き上がり今此処に現存する。
祖父勝太郎が還暦祝いに赴いたであろう当時の写真館を玉川図書館で探ってみた。
六つの店舗があった。
明治36年創業の蛤坂町―島田市太郎写真館
明治39年創業の古寺町―高桑五十松写真館
大正6年創業の尾張町―寺沢市男写真館
大正11年創業の広坂町―米田次三郎写真館
大正11年創業の石浦町―横田熊一写真館
何れも池田町からは至近距離、さて其の何処かは解からないのです。
手掛かりは生山称する写真師が何処の写真館に存在したかであるが捜し出す手掛かりは無いに等しい。
生山様には左手の人差し指の修正を今一度お願いしたいのです。