老いぼれの夕雲考≪133≫

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夕雲流剣術書     小出切一雲 誌(59)


 


無住心剣術を編み出した針谷夕雲は愛弟子小出切一雲と共に「相抜け」の業を確立した。


ところが一雲はおのれの弟子真里谷円四郎には「相抜け」の業は成り立たず何と「相討ち」にて打ち砕かれるという恥辱を味わう。


燦然と輝いた無住心剣の「相抜け」の業は恰も根無し草のように此の世から消え去る運命にあった。


此の間の経緯は現代の剣客甲野善紀氏が見事論証為されている。


しかし此の「相抜け」の業を気高く評価した富永半次郎や鈴木大拙らの大家の存在をみる限り「相抜け」は歴史に残る不滅の金字塔に違いはないとわたしは固く信ずる。


 


 


【學文をして知りたき事は、第一に天理、さては我心性情意氣神魂魄命運時數なり、大概の學者を見るに、能く其心性情意氣神魂魄の沙汰に明らかに、耳もすむ程に談じて、自己の心性情意氣神魂魄の沙汰一圓明ならず、よその命運命數は埒明貌して、迷はぬ發明だてを語らるれども、自己の命運時數に通じたる學者稀也、】


 


 


川村秀東が著わす「辞足為経法前集」にみる師真里谷圓四郎義旭が述べたと云う命運・時數観


 


≪先生云、勝負は人事の業にして智覚なり。運數は本然出て天道自然の理にして、人事より手の附けられぬものなり。人々の生死も自然にして、人事を以って計り知るものにあらず。一より二へはこぶ間を運と云、二になりたる処を數と云。一二三四 ( ウンスウ )五と廻りて天道は行ものなり。春夏秋冬と移り行、是なり。一より二へ運ぶ事ならぬを運の尽きたるという者也。是皆天道自然にして、人意を以って計り知らるる所にあらず。況して剣術勝負のたりにならざる者也。勝負は人事の業にして智覚なり。早やければ早く打、遅ければ遅く打、遠ければ行て打、近ければ近く打、よければ勝、あしければ負也。天道の運よければとて、下學人は上達の人に勝つべきの理なしと也。


 


 


真実、何を学び取るべきか


 


 学問を通して学び取らねばならぬことは、まず第一には天然自然の道理即ち天理であり、次いでは我が身の心性・情意・気神・魂魄・命運・時数なのであります。


 大概の学者たちを見てみまするに、他人の心性・情意・気神・魂魄についての取り扱いは実にはっきりと耳に聞こえる程に説明をなされますが、自分自身の心性・情意・気神・魂魄の取り扱いにはまったくといってよいほど明らかにはなされないのであります。


 また、他人の命運・時数(時勢=成り行き)についてはてきぱきと事が運ぶように、迷うことなく新しい考えを次から次へと語られますけれども、ご自身の命運・時数に精通した学者は極めて稀なのであります。


 


川村秀東 ( ひではる )の命運・時数観


 


 なお、手前(小出切一雲)の孫弟子に当たる川村秀東 ( ひではる )が「辞足為経法前集」の中で、命運・時数について次のようなことを述べているので、参考のために掲載いたします。


《私の師匠である真里谷圓四郎義旭先生は命運・時数について次のように言われました。


 勝負というものは、その人の一身上の出来事であり、その人の分別でもってわきまえなければならないものなのであります。


 命運・時数なるものは、その人が生まれたときより備わる宇宙の仕組みの上での理であって人間のわざとして何ら手の施しようのないものなのです。


人間の生死は自ずからそうあるべきものなので、人間の知覚や感覚というわきまえでもって計り知る術はないのであります。


 一より二へ運ぶ間を命運といいます。二になったところを時数といいます。


 一二三四五と廻りながら天地自然の道理つまり天道なるものは動くのであります。春夏秋冬と季節が移り行くのも、まさに是なのであります。


 もしや、一から二へ運ぶ事が適わぬとすれば、その時は命運のつきたるときと言うのであります。


 これらは皆、天道自然な成り行きなのであって、人意を挟む余地はないのです。益してや、剣術の勝負を知る上での足し前にはならないのであります。


 勝負は人事の業なのであって智覚なのです。勝負というものは、その人の一身上の出来事であって、その人の分別でもってわきまえなければならないものなのであるのです。


 相手が早ければ早く打つ、遅ければ遅く打つ、相手が遠ければ前に出て打つ、近ければ近くで打てばよい。うまくゆけば勝つであろうが、そうでなければ負けるまでことなのであります。


 天道自然の命運がよければとはいうものの、初心者は熟達した業師には勝てる理屈はなかろうことと思う次第なのです。》