老いぼれへぼ剣士の夕雲考《84》

イメージ 1
                           疋田文五郎
 
夕雲流剣術書         小出切一雲 誌(10)
 
上泉の直弟子たち
 
⑧の1
【其中に疋田文五郎、戸田清源、柳生但馬、小笠原玄信と云う者印可を取たり、疋田は兩國筋に住居して指南し、其流派はびこりて品々に分れ、種種の流の名あり、】
 
口語訳
 
 その中にあって、挽田(疋田)文五郎・戸田(富田)清源(勢源)・柳生但馬・小笠原玄信という者たちが免許を取った。
 挽田文五郎は正しくは疋田豊五郎景兼といい秀綱の姉の子として加賀の国の石川郡にて生まれたという。
 すなわち上泉とは叔父、甥の間柄になる。
 疋田陰流剣術新陰疋田流槍術の開祖にして業前は無敵を誇った。
 織田信長の嫡男信忠や豊臣秀吉の養子秀次に兵法を指南したのだという。
 また、徳川家康の面前にて演武を披露したが、その剣技が余りにも壮絶であったので、それを見た家康は「匹夫 ( ひっぷ ) ( ゆう )」に過ぎぬと言って ( さげす )んだのだというエピソードがある。
勝負に対する執着心が余りにも過激すぎたので家康は挽田文五郎を敬遠して、柳生但馬守宗厳の門下に入門したのだと言われている。
 なお、蛇足 ( だそく )ながら文五郎は但馬守宗厳と三度対戦したがいずれにも勝ったのだと聞いているのです。