老いぼれの夕雲考≪136≫

イメージ 1



夕雲流剣術書     小出切一雲 誌(60)



無心に遊ぶ赤ん坊の仕草を剣の極意として位置付けた針谷夕雲の剣術のさわりの部分を小出切一雲は淡々とした筆使いで描写する。


此の師弟同行が編み出したその慧眼とその先見性や独自性に改めて頭が下がる。


 


 


幾ら歳を重ねても幾つになっても赤子のような素直で素朴な美しい心や損得勘定のない無慾な心を持ちつづけたいものです。


況してや剣を手に執るものは猶の事そう在らねばならない。


取り分け功名心とか名誉欲は邪心・非心として遠ざけ切り捨てなければならない。


 


 


赤子の心



當流修行の面々さのみ學文者をうらやみ給ふべからず、面々が二三歳の時、母に抱かれて母の乳ぶさを捻りて乳を飲た時分が、良知良能と云う天理自然の妙用有て我に足れり、這の良知良能にて、我一生の間六十年七十年にても、萬物に應じて自己十分の用に足るはづのものなれども、五六歳の時よりそろそろ良知を失うて外に智解と云もの出り、良能を忘て才の所作かしこく成る程に、漸々にそれをあとかたもなくしたり、聖人の教給ふ語にも、赤子にかへれと云う事は見えねとも、赤子の良心に歸りたる輩あらば聖門にても容すべし、老子は既に嬰児に歸復せよと教へ給ふなれば、云うに不ㇾ及、又當流の稽古初めより極意迄、赤子の心と所作とに本づきて修行す、】


 


口語訳 


 


 当流を修行中の各々方、そう一概に学問をする人たちを羨むほどでもありませんですよ。


 各々方が二つか三つの頃、母の胸に抱かれ母の乳をひねりて乳を飲んでいた時分には良知良能という天然自然の巧妙なる働きが我が身体の中に具わっていたのです。


 この良知良能でもって、自分の六十年七十年という一生の間中よろずの物事に己を対応させるのに十分なはずにもかからわず、五つ六つの頃よりそろそろ良知を失い始め、代わりに智慧なるものが芽生えてくるのであります。


 そして、良能をも忘れてしまい才覚だけを働かせ所作が益々賢くなるほどに、終いには跡形もなくなくしてしまうのであります。


 聖人たちが口にされる言葉で「赤子に帰れ」とはよく耳にいたします。


ところが、もし実際に赤子のような純真無垢・無慾な心に帰り着いた輩がいるとすれば、その人は孔子の門派に数えられようことにと常日頃思うことなのです。


また、老子は既に「嬰児に復帰せよ」と教えられるのだが、それは言うに及ばず当無住心剣流の稽古においても初心の者より極意の位の者まで赤子の心と所作とに基づいた修行を兼ねてより行っているのであります。