老いぼれの夕雲考≪137≫

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夕雲流剣術書     小出切一雲 誌(61)


 


 


針谷夕雲の又弟子の弟子に川村秀東なるものがいて自著「辞足為経法前集」のなかで夕雲の剣法を「能く中るものは能く外れ、能く外れるものは能く中るとなり。・・・・・我は能く外れてでる故に我が太刀は能く敵へ中るとなり。」とまるで禅問答のような難解な表現で解説したらしいがその延長線上にその手の内は箸を執る手の内に似ていると此れ又如何にも夕雲らしい表現だ。


 


 


当流の太刀捌きは飯時の箸を持つ手の内に似たり


 


 


【敵に向て太刀打ちするも、早からず遅からず、能きかげんと云事も無く、我が自然の常の受用に任せて、とよからず弱からず、能きかげんと云事もなく、此亦自然に任す、勇氣俄に張り發す事なく、又憤りを示さず、敵を不ㇾ見我を不ㇾ覺、畢竟近く取てたとへて云はば、朝夕物喰ふ時に膳に向て箸を取る手の内、太刀を取るに好し、飯に向て箸を取り直して喰ふ心にて、敵に向て太刀を用ふる迄の働の外には、何成とも一毫もそへたす物なし、若し少しもそえたす物有らば當流成就の人には非らず、】


 


口語訳


 


 敵に向かってわが太刀を打ち落とすというものの、早からず遅からず、いい加減な立ち振る舞いということもなく、当方の自然な何時もの太刀捌きに任せればよいのです。


 また、強からず弱からず、いい加減に打つということでもなく、これまた自然に任せればよいのであります。


 勇気を俄かに張り詰めて大声を発することもなく、また怯えることもなく、勿論敵をよく見ることなく不覚を取ってはならぬは云うまでもないことです。


 つまり、卑近なことに例えれば朝晩に飯を食う時にお膳に向かって箸を取るその手の内は、太刀を取る手の内に何ら変わりはないのであります。


 飯に向かい箸を取り直してものを食べる気持ちで、敵に向かった折には太刀を手に取り直して用いるだけのことであって、何ら一毛だに付け足すことはないのでございます。


 もしや、ほんの少しだけでも添え足すものがあったにしても、少なくとも当流を成就した者たちには関係ないことなのです。