老いぼれへぼ教師の回想記《11》

 昔、小学生のころお前の絵には天才的素養があるとそそのかされ画家滝川武雄先生の自宅へ赴き特訓を施された。
 今で言う家庭教師に当たる。ところが一ヶ月も経たぬうちに先生から、あなたの絵は色覚異常者の絵なので個性的なのだとご指摘を受けてしまった記憶を苦々しく思い出すのです。
 それでも私は絵を描くことを好んだ。時間の経過を忘れ、没我の境地に入れるのがいい。
 近頃は、絵よりブログとやらにはまってしまったようだ。

 でも、足腰が立たなくなり竹刀すら握れなく時期を見越して、一つのバッグの中に水彩絵の具と画筆、水入れやパレットを隠し持って準備万端整えているのも事実です。





一幅の絵画

 わが家の台所の壁面に一幅の風景画がある。体裁だけは、一応額縁に納められてはいるが、お世辞にも上手いとは申し難い。それでも、これは私にとっては掛け替えのない大切な宝物の一つなのである。
 授業から解放された放課後や休みの日には、よく画筆をとった。二階の教室の窓から望む裏後高山の雄姿をよく捉えた。
 四季折々に織り成す季節の移り変わりが、山の端の色彩の変化と共に、実に鮮やかに甦るのである。萌えいずる青葉若葉の新緑が辺り一面に、覆い始める頃を、私は好んだ。スケッチブックに水彩画をしたため続けた。
 得心のいく作品には、ついぞお目にかかる事はなかったのだが、油絵のカンバスにひときわ長めの絵筆で油絵の具を思い切りぶつけ、塗りたぐってみたい強い衝動に駆られた。
 深山の樹々が、そろそろ色づき始め、内川の清流の水かさが、渇水期を迎えた。川面のせせらぎが何処となく落ち着きを見出した、とある秋の日に、私は校舎の対岸の草薮の中に身を沈めた。
 水渕芳子と下田美代子の萱葺き屋根にポイントを定め、無心に創作に入った。没我の境地で、幾ばくの時の経過があったのだろうか。
 われ只一人、大自然の中に身を置き、安らかなる大地の温もりと戯れた。煩わしき世俗の雑念から解き放され無上の充足感と幸福感を存分に満喫した。
 一陣の秋の涼風が肌を撫で、川面に跳ね返るせせらぎも静寂の中に閉じ込められ、まったく何もかも全てのものが無に帰した世界の中で心から遊んだ。
 絵画の中へ、何もかも全てのものが吸い込まれてしまった。この時、わが人生の中で最高の悦びを味わった。
 しかし、間もなく現実に引き戻され、同僚の諸君から、お前さんはいつもいつもわれらが作った夕餉の馳走をば、ただただ食らうだけの人なのかと冷ややかな言葉を浴びせられたことを、つい思い出してしまうのである。上野さんや久保さんからの辛辣な指摘には返す言葉もなかった。でも悪気がないことはこちらもわかっていた。
 今日の夕食は格別に美味しいとお世辞を言い返したように憶えるのである。
つづく