下手糞老いぼれ剣士の夕雲考《18》

会田雄次は「敗者の条件」のなかで次のようなことを指摘している。
雛鳥たちにとっては弱肉強食のなかでの生存競争は過酷だ。命を狙うのは蛇や鳥獣だけではない。
巣の中の兄弟たちであり何よりも自分の親鳥なのだという。巣から落ちた雛には絶対に給餌をしないという。
何ゆえならば、競争に負けた弱き者はこの世に生きてゆく資格なしと親からも見離される宿命にあるのだという。

見方によれば親のわが子への慈愛なのかもしれない。
外でもない、われら人間社会においてもかつて封建時代には間引きと称して嬰児殺しが横行したのも事実なのです。
大森曹玄はその辺をどのように見ているのでしょうか。


大森曹玄は夕雲をどのように観察し評価したか(3)

虎や狼のような畜生は、取り巻く自然や生活環境の中で本能の趣くままに衝動的かつ刹那的に生きている。
少なくとも、飢餓状態を克服するために、周囲の環境に能動的に働きかけて生命を長らえる為の術は持たない。
自他の間柄は決定的に対立したまま弱肉強食がまかり通るのである。
強き勝者が生き延びて、弱き敗者が死に絶える。そこにあるのは避けては通れない対立的な死生観であり、言葉を換えて言えば諦観的死生観であり、相対的死生観とも言えよう。
ところで他方、畜生でない人間はどうかといえば、危機克服のためには様々な手を打つ智慧を発揮するだろうし、過去の学習効果を自発的に応用して対処するであろうし、また様々な過去の経験を自覚して対応するであろう。
少なくとも其処には、対立的な死生観だけではなく、生と死を超越した発想が浮上して対立的死生観ではない達観的死生観といおうか大観的死生観・自覚的死生観なるものについて大森禅師はおもむろに指摘されたのである。
それは、自己否定の死生観といってもよく、自己を否定することによって、今までの自己を超越したより大きな創造的な自己、より根源的な自己を見出すことが出来るのだという。此処までくると、いたって哲学的だ。