老いぼれへぼ剣士の生い立ちの記《23》

当時は電話さえない。119番はあり得ない。
親の愛情を肌で感じ取ったので今もって憶えているのでしょうか。
時代の流れは医術の進歩を伴い、幸いなことに事わが子に関しては体験がない。
このスナップは、文中の出来事とは無関係、父の友人織田英三氏撮影。
太平洋戦争直前なのだろう。まだ、握り飯があてがわれている。
 
最近でも、東北4県のガスト店にて赤痢症状が蔓延したと報じていたはずだ。
 
 
その三  父高橋忠勝=(2)
 
 
父は死に物狂いで私を背負い深夜の竪町通りを疾走した。父の背中で私は大きく揺らいだ。
真夜中の静寂を裂き破って父の下駄の音だけがけたたましく当たりに響いた。不思議と何もかも、私の記憶の中に蘇る。
今と同じように片町に、あのころも松田小児科があった。
父は激しく玄関の戸を敲き、揺すり、そして大声で怒鳴り喚いた。
如何ほどの時の経過があったのだろうか、中から電灯の光が灯ったことを今も思い出す。
 堰を切ったように、後を追った母としが飛び込んできた。夢の中の出来事を語ったのではない。私は、物凄い父と母からの愛をもろ肌で感受していた。
 そのとき、鉄二がいたか覚えがない。あるいは一人家に残されていたのかもしれない。勿論、爲ばあちゃんが鉄二とともに留守居したことになる。このようにして私の命は疫痢から解放されたのだ。
幼児が赤痢菌に侵されると疫痢と称したのだという。私はどうしたことか脆弱な体質で一度ならず二度三度も疫痢の症状を呈したのだと聞かされた。
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