老いぼれへぼ教師の回想記《37》

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この当時は、未だ現場に管理体制が敷かれることはなかった。
とても大様らかにのんびりと教育実践に当たることが適った。
その活力源にたる飲み会も麻雀も魚釣りやいろんな球技にも熱血を注いだ。
つまり、若さゆえに明日の教育の糧として活かされたと確信したい。
石坂さんことイッサンはグランドの鬼としてノックバットを手放すことはなかった。
畠山さんは一斉テストの折、問題用紙を作成することなく校内放送にてやり遂げられたという猛者でいられた。
平松さんは、日本人で斯くも流暢な英語を我が物になされた方であったとは驚きであった。
もう一人、清水さんはいつも大きな目を見開いて小さなトミヨとイトヨの観察に余念なく没頭なされた姿が印象的である。
 
いずれも、文中の諸氏も皆挙って教育界にて大成なされた。
 
その三 海原に 試練乗り越え 金石中
 
職員バレーとソフト(中)
 
ソフトボールもよくやった。秋口から練習した。親分肌の高田先生がいつもノックバットを握って若手たちをいい意味でしごかれた。
授業で発散したしたはずのエネルギーを温存して置いたのではない。若いので充電が可能だった。
 グランドとコートで躍動する石坂元治・白嶺慶雄・畠山健二・平松仁史らの諸先生方の若かりし頃の勇姿が蘇える。
所謂、職場意識とか仲間意識というような連帯感を伴う絆が明日の教育活動の原動力となっていたように思える。
 おのずと教育という実践活動に充実感が伴った。はっきり言って学校へ行くのが楽しいという、幼児じみた実感が伴ったのである。
 
 この火付け役を演じてくれたのが高田登志夫先生だった。先生は多分私が孕む諸々の要素を大方看破されていたのかも知れぬ。よく私を卒業学年に推挙し登用してくれたような気がしてならない。面倒見のよい先生によく面倒を見てもらったと思わざるを得ない。
高田先生は他界なされた。もうこの世にはいない。