老いぼれへぼ教師の回想記《51》

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花屋さんの店先に並ぶ花たちは
どれもこれも誇らしげに胸を張っている。
それなのに、どうして私たち人間は
どうしてこうも競い合い比べたがるのだろう。
私たち人間は、一人一人みな違うのに
なぜ一番になりたがるのだろうか。
好い歌詞だね。すごい歌詞だね。やはり涙が出て仕様がない。
 
 
その四 鳴中や通り過ぎたり駆け足で(12)
 
火事のこと=その2
 
 教育制度という土台には手を付けずそのまま残し、建物の普請に手を貸そうとする気運が確かにある。

荒廃の一途を辿る諸問題解消の突破口にしようと企んでいるようだ。
 二十一世紀を迎え、今までの十年一日がごとき無風状態の教育環境に激震が走った。
教育の現場に競争原理を導入するのだという。
学校選択の自由化の嵐は高校に留まらず中学校へ、そして早晩小学校にまで及ばんとしている。隔世の感を強くする。
 しかし、今しばし立ち止まって冷静に事態を観察してみるに、学校選択制の導入により全てが解決に向かうのか。それは単なる妄想か幻想に過ぎないだろう。
要するに受験戦争に勝ち抜き勝者へ行き着くノウハウを授けることが教育本来の目的となり教師の使命と成ってしまっている風潮に拍車をかけるだけではなかろうか。
より良き学校はより優秀な選別のテクニシャン教師がいかに数多くいるかにかかっている。このことがより現実的な市民的ニーズに応えることになってしまっている。
 学校選択制は一面的には聞こえはよいが、裏を返せば学校間のあら捜しにすぎない。進学率が芳しくないとか部活動の成績が低調であるとかで特定の学校をピックアップする。
 学校間格差が増長するのである。ベストテンがあればワーストテンがある。
 ランキングを公表し、相互に切磋琢磨する。私学ならいざ知らず公教育の場には明らかにそぐわない。
 広義のイジメ感覚を学校と言う公の機関自体が認知し流布することと相成る。
 まさに笑止千万だ。何ら根本的解決にはならないし、程遠いと言わざるを得ない。
 
 教育の危機が叫ばれて久しい。校内暴力、学級崩壊、対教師暴力、いじめ、登校拒否等々学校現場は荒れ狂っているが、それらの諸原因を教師の指導力や資質の低下に置き換えたり、教職員組合の権利意識を過剰に云々してみたりして責任を押し付けている。
 何が悪い、誰が悪いの論理では最早解決の目途は立つはずがないのである。 要は、現場も然ることながら日教組も文部省も教育行政に携わるものもすべからく皆が正しくなかったのだ。悪かったのだから率直に猛省すべきなのだ。
 戦後の教育に携わった全ての関係者たちが、国民に対しとりわけ全ての子どもたちに向かってひれ伏して謝罪すべきではなかろうか。スタートはここからだと思う。
そんなところへ道徳教育の昂揚とか愛国心教育の徹底とか教育基本法の改正など持ち出すこの感覚にはついていけないし私にはなかなか解せない出来事なのです。 
 日本の子供たちを慮る ( おもんばかる )気持ちがあるのなら、真実正しい日本を創り改めるための百年の計を設計すべきなのだ。今からでも遅くはない。
 つまり、教育権の樹立である。行政権を担う時の権力者から干渉されることのない分離独立した教育権を三権に加える。四権分立国家とする。いかがなものでしょうか。
橋元大阪市長さん、いかがなものでしょうか。