老いぼれの夕雲考《110》

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夕雲流剣術書        小出切一雲 誌(36)
 
邪道に流される正統性=然るに師たる者は
 
 
㉙【たとへ弟子の内にあればとて、一月か二月の中に漸く一度か二度對面の、暫時稽古する ( マヽ )の事、いかやうの盛徳の君子のふりにも仕なし、口に向上の理義を談ずるも易き事なれば、皮肉の上より見透すべき樣もなく、師一生の間も、眞實の人を知らずして交る弟子はいかほどもあるべき事なり、畢竟面々の心に覺えあるべし、其上天理と人慾は至て知り易き者なれば、能知り分けて天性に本づくか人慾に落るかと自己に看、外の毀譽に構はず、只管に君子の徳行に移る修行專要に勵し、かりそめにも畜生心の發せぬ樣に用心すべし、】
 
口語訳
   
例え、このような者たちが弟子の中にいるとしても、月に一度や二度ぐらいの短い時間の稽古にしか立ち合わずして、その者を立派な徳を備えた君子にまで仕立てることは到底出来ぬことなのです。
 
また、巧い口実で技の極意の理合だけを語ることは簡単ではあるが、その者の上辺だけを見て全てを洞察することはなお叶わないことなのです。
師の生涯を通して、師の本当の人柄を知らずに教えを授かろうとするような弟子は、そんなに多くはいないことだろう。
 
詰まる所師たる者は、このような各々方の心の中は見え見えなので簡単に見透かすことが出来ましょう。
そう云う訳で、天の道理と人欲との違いは至って分かり易いものなのだから、よくよくしっかりと区別しなくてはならないのであります。
 
また師たる者は、その者たちの動きが天性に基づくものか、それとも人欲に落つる行為なのか己に厳しく問い掛け判断しなくてはならないのです。
とにかく、外部から褒められようが貶されようが一切お構いなしに、ただ只管に弟子たちが君子の徳に近づくように修行を促がし、かりそめにも畜生心が芽生えさせないように用心しなくてはならないのです。