28日の金曜日にいつもお世話を戴く知人の舟田さんから久し振りの電話が入った。
とてもご奇特なお方で過去にもわたしのルーツに関わる重大なる情報を惜しげもなく提供して下さっている。
今回も、偶然にも面白い発見を為したので是非わたしに知らせたいと野田山に誘われたのでした。
そこで見たものにわたしは唖然とした。
何と、土肥但馬守親真( ちかざね)一族の墓地の前に立ってこれがそうだと指差されるのです。
処が、確かに土肥の文字は素人のわたしの目にも読み取れたが殆どの刻字が不鮮明を極わめるのです。
何ら確証はない。
確証のし様がない。
掴みようがないのだ。
ただ、その中に唯一つ判読できる一基に出くわした。
「土肥三左衛門家?室 服部牧多尚澄娘」とあるではありませんか。
即刻、家へ素っ飛び土肥家諸士系譜で確認に及べば間違いなく津田家三代目を継いだ武平次近知の甥御に土肥三左衛門が厳として存在し服部牧多女を娶ると明記されている。
遂に、驚くべき確証を掴み得た。
津田家所縁の土肥家の広大なる墓地に二十基以上の墓石が立ち並ぶ威容に只々恐れ入るばかりであった。
土肥但馬守親真は末森山合戦の主戦場となる末森城の城主の地位を前田利家公に安堵された人物に他ならない。
舟田さんには頭が上がらないくらい申し訳ないのだが、またしても嫌味たっぷりの自慢話を開陳するに及び大人気ない次第だ。