老いぼれの独り言

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以前、11月3日に発信したブログで末森山に登ったことを述べた。
この末森山にこだわらざるを得ない理由が一つあるのです。
実は、松根城と同様此の山にもわたしの母方のご先祖がかかわっていたのです。
またしても自慢たらしい言い草でさぞかし傍の者には辟易されることだろうが・・・
 
不思議な因縁と云うほかはないのです。
母方のご先祖津田家の三代目を継いだ津田武平次は二代目の十郎兵衛近久には世継ぎ人がいなかったので養子に入ったお人である。
武平次は土肥四郎左衛門直言と云う600石取りの加賀藩士の実弟に当たるという。
諸士系譜に従えばこの土肥家の始祖は土肥但馬守親真 (ちかざね )に辿りつくので
して此の土肥親真なる者は一説に従えば事もあろうに此処末森城の築城者で在ったのだという。
また上杉謙信の配下では末森城の城主に任ぜられ、さらには加賀の一向一揆鎮圧後は織田信長の軍門に下りその家臣として末森城主の地位を安堵されたという。
その後は前田利家能登の国を直轄するやその与力的存在として同じく末森城主を任せれた。
併せて、利家の正室芳春院ことお松の方の姪御末守殿を迎えて其の地位は安泰かに見えたが賤ヶ岳の戦いにて柴田方の利家軍の先鋒にて一番槍を相務めたが見事討ち死にしてしまったという。
その折、末森城の留守居をしたのが文献上の史料によれば但馬守親真 (ちかざね )の嫡子か次男かは定かではないが土肥伊予守茂次であるのだという。
しかし、この伊予守茂次は天正12年(1585年)の末森山の合戦にて佐々成政の急襲を受け敢え無く討ち死にしたという。
 
ところが実は、加賀藩諸士系譜を紐解けば但馬守親真を継いだ2代目に土肥四郎左衛門家次なるものの名が見えるのです。
推測に過ぎぬが恐らくは親真の嫡子家次が土肥家を継ぎ、次男の茂次が末森城主を継いだと判断致した次第だ。
3代目に四郎左衛門實直(600石)4代目に土肥加傳次實泰(600石)5代目に土肥弥左衛門直平(600石)6代目は土肥三十郎(600石)と続き、7代目に土肥四郎左衛門直言があたる。
知行600石で大小将から後に御馬廻で仕える。
内藤吉大夫の娘を室にし文化7年4月29日に70歳にて世を去るとある。
此の土肥家7代目当主四郎左衛門直言の実弟たる土肥武平次が津田十郎兵衛の養子としてなり津田家を継いだことは紛れもない事実と相成ろう。
依って、末森城に所縁の人物がわが母方の遠き遠きご先祖に居られたことを認めざるを得ないのです。