先日、玉川図書館の近世史料室で土肥家の由緒書にお目に掛かろうと淡い期待を込めてお伺いを立てたのだがやはり駄目でした。
大変残念ではあったが此ればかりは如何ともし難きことである。
せめて、土肥家の菩提寺とか檀那寺を糸口にして戒名等が判明すれば墓石の主に辿り着けたはずだと思えば無念で堪らない。
併せて、土肥家は600石で津田家は500石の家格で此の両家が如何なる間柄でどのようなコンタクトを取り合う仲だったのか興味は尽きない。
いずれにしても、此の両家共に由緒書が散逸したのか焼失してしまったのか此の世に存在してない事は致命的に痛いのです。
しかし、舟田さんのお蔭でわたしの母方ご先祖の津田武平次近知なるものが文化文政期に此の世に生存した物的証しを此の目で現認し手の感触で確かめられ得たことは大収穫でした。
武平次の兄貴の倅に当たる土肥三左衛門は宮腰の町奉行を相務めたと諸士系譜にはある。
ひょっとして浜辺に足を運び釣糸を垂らしたかも知れない。
何とも微笑ましい限りだ。
『金沢延宝図』にて土肥家の居住地を確かめて見なくてはなるまい。
そういえばもう一つ収穫があった。
『政鄰記』の原本にお目に掛かれた。
閲覧を申し出たら易とも簡単に叶えられた。
版型から四六版くらいで小さく感じた。
ただし、不甲斐なくも解読一向に敵わず相変わらず恥ずかしい思いにさせられたのでした。
第1巻の筆勢は雄渾を極めていたが最終巻の31巻目の字体はさすがにくたびれ果てて枯淡の色を色濃くしていたのが興味深かった。
津田正鄰が只ならぬ能筆家でその几帳面さには只々舌を巻いた次第なのです。