老いのひとこと

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此れは半分以上作り話なのかもしれません。
「近吾」は弘化2年(1845)2月2日に父「清三郎」母「鉚」の下に生まれた。
ところが、母「鉚」は産後の経過思わしくなく2週間後の2月16日に幼子を残したまま弐十歳の若さでこの世を去ってしまったのです。
父「清三郎」は周囲の配慮もあって乳飲み子の世話役として後妻「治」を娶った。
「近吾」にしてみれば産着のまま生みの親「鉚」から育ての親「治」へ事もなく手渡されたことになる。
天保元年(1830)生まれの「治」は弘化2年の年は15の歳を数えることになる。
なお、この「治」は弘化元年(1844)7月5日に金澤區桶町の笠間又六郎の下へ養女として入籍していた。
いずれにしろ、この「笠間治」は拾代後半の身でありながら「清三郎」の後妻として嫁ぎ「近吾」の養育に日夜精を出したことでありましょう。
また、当然の成り行きとして「治」はわが身の腹を痛めて「近三」と「伴四郎」の二人の子を儲けた。
「近吾」にすればおのれと年恰好の変わらぬ腹違いの弟が二人いたことになろう。
三、四、吾と年子のような兄弟は母親「治」からの慈愛を受けて健やかに育ったのでした。
一方、父親「清三郎」からは文人としての細やかな薫陶を受けて成長したのでした。
「清三郎」は前田家家臣として御馬廻りから表小将として仕え、自分の母親は前田正鄰の娘筋に当たり又先妻「鉚」の父親は名を馳せた暦学、天文学、数学、測量学の大御所であって「鉚」自身も和歌や書画を嗜む一流の文化人であったので、この「近吾」、「近三」、「伴四郎」の三兄弟は抜群の家庭環境に恵まれ教養人たる父「清三郎」からも強い影響を諸に受けたのでした。
野田山墓地の芝山の地に「近吾」は晩年になってから父「清三郎」と二人の母親「鉚」と「治」の墓を建立した。
一体の墓石に三人の戒名を刻んだもので「津田香太郎」の別名で建てたのです。
「鉚」から頂いた「近吾」の名を伏せて、つまり「治」に気兼ねして別称「香太郎」の名で造ったのでしょう。
「近吾」こと「香太郎」はこの三人の両親に言い知れぬ多大な恩義を感じ取っていた何よりの証しではないでしょうか。
何と奥床しき見上げた人物なのか。
 
併せて、「近吾ら兄弟」は同門の仲間内と共に師と仰ぐ「津田清三郎近猷」を野田山より一族の菩提寺である寺町台地の妙典寺に帰還させたのでした。
「清三郎近猷」では目立つので「半山君」と目立たぬように名を伏せた細やかな配慮に只々感嘆するのみなのです。
その発起人は当然のことながら「清三郎」嫡男「津田近吾」に他ならないのです。