老いのひとこと

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剣を構えて相対峙し相討ちにて勝負が決す。
何れかが絶命し果てて勝負がつく。
相対峙し合った彼我共々はまさに「逢うは別れの始め」と相成りましょう。
それ故にわたしは立合いし折には有りっ丈の気持ちを込めて相方へ「おねがいします」と申すのです。
終われば「ありがとうございました」と精一杯の声で挨拶を交わす。
命の遣り取りをいたすのに非礼は許されるはずはない、相方に対し此れほどの無礼はない。
 でも此の際、此処での道場稽古には勝ちも負けもない、そんなことはどうでもよい。
 廻り稽古で同じ相方に何度出逢おうが関係なくその都度その都度「一期一会」の気持ちでご挨拶を交わすのです。
 これ我が流儀と致すのです。
 この「一期一会」の心境は換言いたせば弓の世界で云うところの「会者定離」と相通じることとなりはしまいか。
 
此処で弓の世界に舞い戻り「会者定離」を紐解けば射法八節に説かれる「会」から「離」に到達する筋道を表わす核心の部分に他ならない。
嘴の黄色い洟垂れ小僧が笑止千万なことを物申す訳だが弓道の世界は剣道に比べれば相当抽象的であり概念的でもありとても精神的にも思えてならないのです。
第一対峙する相方敵が見えない。
恐らくはおのれ自身なのでありましょう。
出会いがあれば必ずや離別がある。
出会うのは弓と矢なのか、弓手と馬手なのだろうか、それとも的と射手なのでしょうか。
心得た立派な「会」があればそれに見合う素晴らしき「離」が生じて一射が終わる。
とても精神性の高い高次元の世界のように思えてならない。
弓聖阿波研造氏の「一射絶命」に相通ずることなのでしょうか。
更には、針谷夕雲と小出切一雲が説く「相討ち」から「相抜け」に昇華する剣の理合いにも相通ずることなのでしょうか。
剣も弓も難しい、一向に前へ進み出ようとしない。
同じ個所に踏み止まりぐるぐるとまわり続けるだけなのです。