弓事始め《37》

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武芸十八般」の言葉のようにむかしの武士はいろんな武芸に長じていなくはならない。


中でも取り分け、「弓馬の道」と呼ばれるようにイの一番に弓を手懐けねばならなかったのでありましょうか。


また、弓足軽の言葉のようにむかしは重宝な存在であったのでありましょう。


ところが今様21世紀版武人擬(ぶじんもど)の此のわたくしは此の弓道に梃子摺っているのです。


先月の審査に際しても数分間の「跪坐」の姿勢を保持できないばかりに受審を断念せざるを得なかった。


不甲斐ない奴であり情けない今様武人擬きなのです。


かと言って軽々に踏ん切りをつけて退却致すわけにも行かず意地を張るのです。


先日も新規に開講した弓道講座に厚かましくも顔を出し高校生諸君らと共に今年も道場の床を踏んで参ったのです。


心機一転新たなる挑戦を決意したのです。


講師の先生はとくとくと語る。


弓は弓を射るだけには非ずして弓を通して数々のこころや精神力を養ってくださいと説諭が続く、座学と云うレクチャーが続く。


その間は、云わずと知れた正座の姿勢なのです。


「跪坐」ではなく「正座」の姿勢なのだがやはり辛い豪いことだ。


武人擬きの此のわたしにも耐えられぬ苦痛が襲う、激痛に身が捩れる。


またまた情けない悲哀を味わう羽目に堕ち至るのです。


幾つかの武芸を志したにもかからわず此の無様は何だ。


いや、此れこそが今講師の先生が口にする精神力淘汰の時に他ならないと我が身自身を叱咤激励したのです。


脂汗が噴き出す寸前で一時間目の50分が漸く経過したのです。


何と驚くべきことに高校生14名中二名のものが平然とこの拷問刑に等しい正座の修行を完遂したのです。


わたしは思わず「君らは凄い」と背中を叩いて絶賛したのでした。