老いのひとこと

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轆轤の実習体験をした大先生の工房が本多安房守邸の土蔵であることを知って此の上なき大きな驚きをいただいた。


取り分け、その土蔵を「刀蔵」と呼ぶことを知って猶のこと驚いた。


偶々、泉野図書館に所用があったので早速伺ってみた。


色いろ史料を取り揃えて頂いたが核心に触れるものは見当たらなかった。


翌日には玉川図書館に赴き尋ねてみるがやはり予期した通り斯くなる史料は当館には無いという。


ただ、別の史料で小立野台にあった本多家上屋敷陸軍省に接収された明治19年に上屋敷の一部を下屋敷へ移築したのだという。


それが、松風閣に外ならず其処には以前より伏流水が湧き出て蓮池と霞ヶ池の二つの池があったらしいのだが肝心要の土蔵の記述は残念ながら何処にもなかった。


そもそも此の松風閣は天保5年(1834年)に12代藩主前田斎廣 ( なりなが )の娘寿寿姫 ( ずずひめ )が本多家9代目当主本多政和に輿入れした折に父斎廣が娘に贈った


廣坂御廣式御対面所 ( ひろさかおひろしきごたいめんじょ )なるものらしいのです。


無論、此の松風閣と「刀蔵」なる土蔵とはどうみても関係はなさそうだ。


何処にあった土蔵をいつ何時移築したかは文献史料は一切存在しなく如何ともし難いのだというのです。


最後の手段として再度「加賀本多博物館」に館長さんを尋ねたのだが今日も不在だった。


お若き学芸員の御方が誠意ある態度で対応なされたが依然として「刀蔵」の名の由来や移築時期等に付いては全く文献が残されていないとの事由で拒否なされたのです。


わたしの勘繰りに過ぎぬが何かしら巨額の不動産移転に伴う登記簿上の諸問題が一様に絡んでいるように思えてならない。