津田近三の命日は明治22年12月30日であることが判った。
享年何歳であったかはわからなかった。
ただ、少なくとも明治4年5年の頃は間違いなく存命中になる。
折しも当時は四民平等が謳われ秩禄が処分され又断髪令や廃刀令が矢継ぎ早やに出され不平士族が全国各地で渦巻き士族の反乱が頻発していた。
その良い例がわが県では島田一郎らが組する一味がとうとう大久保利通暗殺事件まで仕出かしてしまっている。
当時、県庁移転に伴って一部の不平士族らは不穏な動きを為したらしいのです。
難しい漢字だが「邏卒( らそつ)」という言葉がある。
巡邏(じゅんら)の兵卒の略称らしい。
今でいうお巡りさん警察官のことで当時はその数何と72名を数えるに過ぎなかったのだという。
だから、500名を超える不平士族の襲撃に合いさぞかし手に負えなかったのでありましょう。
此の火急の事態にご登場するのが吾らが津田近三に他ならないのです。
昭和4年に発行された「石川縣史」第4編237ページに次のような記述があるのです。
《~、次いで多賀直春、寺西秀敬、西尾彜倫( つねみち)、津田近三等は各々官より受くる家禄を割きて献納し、その他有志の者の醵金 ( きょきん )千四百六十両、・・・・・、この資金により邏卒の増員を計り、補助邏卒は九月初旬に至りて解散せり。
かくて士民不穏の状自( おのず)から鎮静し、無謀の暴行を為すものなきに至り、漸く主義主張を標榜する政治的團體の崛起 ( くっき )を見るの運に向へり。~》
津田近三らは自分の給金まで割いて拠出し警察体制の強化を図り県下の治安の安定化に大いに寄与し貢献した事と相成りましょう。
特筆に値する程の出来事ではないにしろ「近三」の名は歴史にその名を刻んでいるではないか。
旧穴水町に在住の証しある津田近三の末裔や今如何に、未だ為すべき課題は多いのです。
市役所で「近三」の戸籍謄本を申請したがいくら本家方であっても血縁がなければだめなのだと対応を断られてしまいました。