老いのひとこと

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第2と第4木曜日に教養講座が開設される。


少し前までは在ることすら知らず振り向きもしなかったのだが此処最近はどうした事か顔を出すようになってしまった。


我ながら不思議な現象に陥ってしまったものだと感心するばかり。


云うならばその都度各宗派のお坊さんのお説教を聞く機会に勉めて関与いたすようになったのです。


我ながら齢を取ってしまったものだ。


次回はキリスト教の牧師さんが担当為される。


中でもよくお見えになられるのがお東さんのお坊さんなのです。


そのお坊さんは必ず燈明を上げられ香りのよいお線香を供えられる。


そして、毎回のように必ず真宗宗歌と恩徳讃を後先二回とても懇ろに歌わされるのです。


大きな声で唱和される方は誰もおらず何時も和尚さんお一人で歌われるのです。


場をシラケさせることなくお一人で朗々と歌われる。


此処のところは少々気兼ねに思って歌う振りをして口を開け閉めいたすのです。


自意志で進んで歌う気には未だ至らずもぐもぐさせるだけなのだがこれが若しやひょっとして口遊むようになってしまえば如何にもまずかろう。


此れが謂うところのマインドコントロールに嵌まるということなのか。


確かに真宗の教えには戒律もないし難行苦行の修行もない座禅を組むこともなくどんなにグータラ悪人でも往生できるというお話なのです。


ただ「南無阿弥陀仏」と称名念仏を唱え阿弥陀如来さんの本願に何もかも委ねお任せすればそれでよろしいのですとおっしゃる。


その御言葉通りに何の抵抗もなく意識もせずに御念仏を唱え真宗宗歌を歌い始めればそれにて第一巻の終わりと相成る事は解っている。


此のわたくしには沢庵さんや一休さん良寛さんの生き様に今以って未練が残るのです。


体力、知力共々遠く及ばずとも出来得る限りの行を重ねて自力で此の世の苦しみから抜け出る努力を果たしてみたいと生意気にも思うのです。