老いの回想記≪129≫

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その七 いばらとて 花芽つきしや 高尾台


 


花芽膨らみかけたその矢先に内なる異変が下で俄かに花萎れ半開きのままに終焉をむかえる。


ただ、萎れたままの花芽ではあるがいばらの枝から落ちることなく今以って萎れた姿で喰い下がり執拗にぶら下がり居るではないか。


つい先達てのこと天空に浮かぶ我が師匠より打って中っただけでは駄目ですよ、中った瞬間に打ち切る動作がもう一つ備わらなければ本当の剣道ではありませんと優しく諭されました。


此の歳になって漸く剣道の深遠な奥の深さに恐れ戦く身になりました。


あの当時の剣道への思い入れがほろ苦く思い出される。


「非心を切ることが剣の道である」この教えこそは此れからも生かさねばならないと肝に銘ずる昨今なのです。


 


 


 


 


 


道場訓-2


 


 しかし、その時点でもはやわたしの指導力に陰りが見え始めていた。


既に毒牙に侵されつつあった。


自分自身がそのことに敏感に気付いていた。


 私の剣道人生もこの時点で終息したも同然であったのかもしれない。


この学校で二カ年間の剣道部の顧問生活を辛うじて全うできたのも松沢さんのお蔭であった。


松沢さんは剣道の心得はなかったが熱心に道場に足を運び温かい眼差しで無言の指導に当たってくれた。


このことが彼ら部員たちの心の支えとなったことだろうし、何よりも私自身への強力なる助っ人となってくれた人物であった。


 道場訓に掲げる『非心』におのれ自身は負けたくはない、負けてしまったとはとは思いたくない。


『非心』を一刀両断に切り裂くために何をなせばよいか、何をなすことができようかと随分と思案した。


 


道場の片隅で無心で居合を抜いた。


無心になろうとしたが無心にはなりきれずに邪な『非心』を真っ向斬り下ろしただけであった。


 


 去るにあたり、後ろ髪を引かれる悲痛な想いが一つあった。


それは置き去りにした一年生女子部員への心残りであった。


何故かしら彼女らが不憫で去り難き愛惜の念に苛まされたことを生々しく思い出すのである。


 


道場にて一人寂しく道場訓を撤去したのだった。