剣道はすごいぞ≪16≫

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『剣道はすごいぞ』


   ―伝統と文化を大切にしてよりよい日本国をめざそうー


 


剣の理法を修練して人間形成を目指すことが剣道を行う所以でありましょう。


技を磨いて強くなって人間形成に近づこうと皆が厳しい稽古に励んでいる。


処が厳しい稽古に励む者が皆一人残さず勝者となって人間形成を為し遂げるのかと云えば然に非ずと云うしかない。


幾ら真面目に稽古に励んでも勝者にはなり得ず憂き目に甘んずる敗残者が居りましょう。


彼の者たちにも人間形成に近づける手立てはないものだろうか。


 


 


 


 


 


 


 


 


よりよい剣道をめざして


 


反省し 非心を切って 人となる


 相手に小馬鹿にされ軽蔑されれば、おのれの非力を素直に認め、またおのれの至らぬ点を反省し更にはおのれのあらざる邪悪でひ弱な心をいさめ、もっともっと強く礼儀正しい人になれるようにわが身を厳しく責め続けなければならない。


 つまり人間形成をおのれ自らの力で達成したいのなら、とにかく強くならなければならないのである。


強くなるためにはやはり他人様より多くの稽古をおのれ自身に課しておのれを責め立て不撓不屈の精神でうまずたゆまぬ努力を払わねばならないのである。


このプロセスの中でおのずと人間形成が成されて行くのだと理解できよう。


 とにかく自分を厳しく責め抜き痛め付ける、強くなれぬのは自分の努力が足りぬのであって決して他人の所為ではないと肝に銘じながら、やはり『急急たらりたらり急』なのである。


急がずにたらりと心を長く持って、ゆるゆるたらりと気をもまずに怠らず、油断なく急がずに稽古をする心構えで修行せねば上達はないのである。


 ところがここで大きな壁にぶち当たるのである。


つまり、ここではっきりした結果を出さねばならぬのである。


何が何でも相手より強くなって相手を打ち負かし勝利を手中に収めなければ人間形成への道はなかなか難しく閉ざされていってしまうのです。


いくら努力を重ねても勝利を得なければ人間形成は不可能なのです。


 やはり、剣の達人といわれる高段者や試合巧者の剣士にしか人間形成の道は開かれることはないのである。


 勝者の数だけ敗者がいるのではない。


勝者の数の数倍、いや数十数百数千数万倍もの敗者がいるのである。


 このおびただしい数の敗者に対し悔しければもっ努力しなさい稽古が足りぬと叱咤激励する迄は良いにしても、ともすれば敗者をみさげ見くだし蔑視する嫌いを見受けたりするのである。


甚だしくはもっと要領よく立ち振る舞うことすら示唆する内容の具体例を某専門誌へ故井上正孝先生が寄稿されたものを読んだことがある。


ここに至れば最早嫌悪感すら催すのである。堕落以外の何者でもない。


そこで一言提言したい。このおびただしい数の敗者であり劣者であり弱者たちにも人間形成の道が開かれていること示さねばならないのではなかろうかと思うのです。


やってもやってもうだつの上がらない不甲斐無い人たちのことです。


陽の目を見る事も無く終生弱者として劣者の烙印を押されたまま敗者に甘んじている人たちも終には寂しく面タオルをたたんで道場を去ってゆく。


人間として生を得ながら剣の道で挫折し人間形成の道を断念し人間になることをあきらめざるを得ない。


こんな事は在ってはならぬ。なんと言ってもこの世の不条理だ。


剣の理法を修練しながら人間形成の道を究め合う間柄で一方は見事人間形成を成し遂げ、片やもう一方には敗残者で終わってしまう者たちがいる。


敗者や劣者や弱者といわれるものたちであっても前向きに真摯な態度で取り組めば真の人間形成が可能であることを共通認識できる場面や条件を整えていくことができぬものだろうか。


決して甘えの論法や甘えの構造を容認したり是認するのではなく、言うところのセイフテイネットなのである。


剣道の世界にも、剣道の世界なるがゆえにこれが必要だという結論に至ったのである。


もちろん、敗者復活とか今はやりの再チャレンジ論とは別物であるは言うまでもないことだ。


ただし、このろくでなしの剣士には、以下のような非常に厳しい条件を完璧にクリアしない限りにおいては、やっぱし救いようのない本当の敗残者になってしまうことを明記したいのです。