『剣道はすごいぞ』
―伝統と文化を大切にしてよりよい日本国をめざそうー
全日本剣道選手権をみるまでもなく今日の日本剣道は完全に競技スポーツ化してしまった。
剣聖山田次郎吉の眼には如何様に映ろうかどんな言葉を吐き捨てようか。
勝ち負けを超越した本来の武士道精神に則った真実の日本剣道は最早過去の遺物と化してしまったのでしょうか。
本当の負け犬にならぬために
その一・・・堂々と 真っ向打ち込む 捨身わざ
《真に剣道にて修養を成さんには、必ず心をもって剣を使うべし。打つなら打て、突くなら突けと全部を投げ出すべし。隙を狙ったりしてコセコセせず堂々と真っ向に振りかぶって打ち込むべし。堂々たるところ無からざるべからず。》
逃げも隠れもせずに正々堂々とコセコセチョコチョコしない大技で真っ向から挑みなさい。
相手十分に、打ちたいのなら打ちなさいと胸襟を開いた気心、デッカイ寛容の心で此方は誠心誠意全力でこれに応えて打ち込まねばならない。
山田次朗吉が昭和三年に著した小論「剣道一夕話」の最後尾にこのような記述がある。
《榊原健吉逝って、誰か健吉の衣鉢を継いだであろうか。欧化主義がすたれ、また剣道の声を聴く。しかもそれは華法彩形の末技であって剣道の精髄は地を払って去った。ゆかりも深き昭和戊辰も余日を余すこと幾ばくも無き今日この頃、余はうたた寂寥を感じざるを得ないのである》
今日的見地で捉えた剣道観からして江戸末期・明治・大正の往時には剣道ではなく剣術が隆盛を極めたという浅はかなる認識であったが、実は次朗吉に言わせれば榊原健吉以降には最早わが日本国の剣道は姿を消し去り技芸としての剣術に堕落してしまったとこき下ろすのである。
華法彩形なる見慣れぬ文字を広辞苑にて捜してみたがいっこうに見当たらない。
華やいだやり方で形だけ見栄えよく彩りされた竹刀さばき体さばきと意訳してみればなるほどとうなずけるのである。
今日の剣道は、ただ単なるササラ踊りという竹刀振りの熟練工のしぐさに過ぎず道を極めた人たちによる真の剣道にお目に掛かれることはめったにないと行き着くところ知らずに際限なく酷評が続くのである。
しかし、完全にスポーツ化された今日の競技剣道としても他人事として無視もしくは黙視するのではなく傾聴に値する忠告・箴言として真摯に受け止めねばならないと確信をもって言いたいのである。
もしや一笑に付されるような御仁が在られるとしたら、これほど寂しいことはないのである。
負け戦がしみ込んだ下手糞に課せられた第一の通過すべき旗門は逃げ隠れしない堂々たる大技の正面打ちなのです。