老いぼれへぼ剣士の独り言

 「剣道時代」1999年四月号に『一刀流極意』の教えを読むと題して特集を組まれた。
 実父順造氏の名著『一刀流極意』をご子息笹森建美氏が平易にして解説された。
 居乍らにして小野派一刀流の極意の一端に拝覧するに及んだことは無上の喜びとしなくてはならない。
 剣の心は『真の心』であり深深と伝わる其の含蓄深き言葉の節々にしびれてしまった次第です。
 ただ、浅学非才の者が一夜造りの作文をしたためた事を大いに恥じ入る次第でもあります。


剣の心とは(3)

 小野派(おのは)一刀流(いっとうりゅう)の剣(けん)理(り)に五(ご)格(かく)一貫(いっかん)の教えがある。
 五格とは心・気・理・機・術であり、此の心気理機術を一貫して学び取り習熟(しゅうじゅく)する教えであるのだと言う。
 それは、術と機は「不生(ふしょう)不滅(ふめつ)」なる言葉で、理と機とは「理機(りき)不二(ふじ)」なる言葉で表し、また気と理の関わりにおいては「気(き)理(り)合一(ごういち)」という言葉で表現し、さらには心と気との間には「心気(しんき)一如(いちにょ)」なる言葉が存するのであって、その更なる上には「真(まこと)の心」が位置することとなるのだといわれる。
 心気理機術は一貫して各々が有機的(ゆうきてき)に関連(かんれん)し連鎖(れんさ)し合いながら、その最上部に「真の心」が存在することと相成るのだと説明する。 
 小野派一刀流での「真の心」というのは自分の「真の心」で相手の心の真(ま)っ只中(ただなか)を一心不乱(いっしんふらん)に張るのだという。
 相手の竹刀の真っ只中を一心不乱に張ることにより、相手の心を動かし、相手の豪気(ごうき)を打ち砕(くだ)くのだと言う。
 つまり、自分と相手の「心と心」とが、そして「気と気」とが、さらには「実と実」とが激しくぶつかり合う。
 結果として、優勢(ゆうせい)と劣勢(れっせい)とが生じ優勢には実(じつ)が劣勢には虚(きょ)が現れ勝負は決まるのだと言う。
 真の心とは真っ只中の心、真ん中の心、つまり忠と相成るのだと言う。
 此の忠の心は、うそ偽(いつわ)りのない真心(まごころ)のことであり私利私欲を完璧(かんぺき)に滅却(めっきゃく)した無私(むし)・無欲(むよく)・無我(むが)の境地(きょうち)なのである。
 此れは明らかに、自己(じこ)否定(ひてい)であり自己(じこ)犠牲(ぎせい)にも相通(あいつう)じる。それ故に邪悪(じゃあく)なる思いを完全に払拭(ふっしょく)してしまえば心静かなる平常(へいじょう)心(しん)が得られるのだと言う。
 然(さ)すれば 、そこに初めて「真の心」とか「誠の心」に到達し得るわけになる。
 「誠の心」で剣を遣(つか)わねばならないことに気付くようにお互い修行を積まねばなるまい。
 端的(たんてき)に見れば、まさに「剣の技」より「剣の心」が肝要(かんよう)であるというに等しく、結局のところ虎之助の「剣は心なり」に帰着することになる。


 剣=太刀=竹刀を構えて対峙(たいじ)致せば、剣の理法に従いて死ぬるか生きるかの一期一会(いちごいちえ)の立会いに他ならない。
 因(よ)って、段位・称号・肩書きなどは一切(いっさい)無用(むよう)。その時その時全身(ぜんしん)全霊(ぜんれい)にて戦うのみなのである。
 此の全身全霊で戦う心が大切なのである。 
(石田和外(かずと)氏の言より)

 *石田和外氏は本より元最高裁判所長官、元全日本剣道連盟会長、元一刀正傳無刀流剣術宗家で在られた御方なり。