老いぼれへぼ教師の回想記《31》

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 そもそも麻雀なるものを中国より日本国へ紹介した人物が彼の夏目漱石さんなのだという。
 戦前の頃には文化人を中心に随分隆盛を極めたらしい。
 その後、戦後の復興を為し終え高度経済成長の波が打ち寄せんとした昭和60年代に入って一大麻雀ブームが押し寄せた。
 猫も杓子もジャン卓を囲った。知らぬとメンツが立たなかった。
 どうも、大橋巨泉氏が火付け役を担ったのだという。
 
 
 其の三  海原に 試練乗り越え 金石中
 
宿直室(上)
 
 宿直制度があり男性は交代で学校に泊まった。寝具は勿論、テレビやラジオに食器の類い調味料と必ずといってよいほど部屋の隅に置かれた清酒の瓶が目に付いた。
 将棋盤と碁盤は遠慮がちに振舞ったが中央に堂々とした風情で鎮座したのがジャン卓だった。
 事務官に上田健二氏がいた。バケさんともいった。競馬と麻雀に御執心の御仁だった。
 一日を終え、終わりの会の終礼に臨んでいる最中に私の教室前の廊下に必ずといって程に上田健二氏が立っていた。
 ウインクとも取れない独特のサインが発せられる。私も暗黙のサインで応ぜざるを得ない。
 瞬時にしてメンバーが揃った。メンが建ったわけだ。学年主任や教科主任もいた。
暗黙の公認に近い。単なる若輩者の憂さ晴らしではない。明日の教育・明日のよりよき授業を成立させるための必要悪と諸諸の輩は自認した。
 プロ級の腕前を自任する理科の高木さん、数学の新保女史、金森さん、美術の角淵さん、笠間さんこと端名清さん、社会の辻口さん、野上さん等々枚挙にいとまがないのである。
 さすればどうしても鴨が要るのである。バケさんこと上田健二氏が度重く私を誘惑した所以がそこにあったのだ。 気付くのが今では遅すぎるのである。私に類する御仁がいられるが名誉のために名前は伏せよう