老いぼれへぼ剣士の夕雲考《53》

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出頭の面
 
物の書物で読んだことだが、剣の理合いを語る上で大事なことは、如何にして相手を引き出すかに掛かっているのだという。
先ず一つは、攻める→相手を崩す→相手動く→それに乗って出頭を打つ。
もう一つは、攻める→相手を崩し引き出す→相手の打ちに対し応じ返す。
つまりは、先を取って仕掛けるか、後の先で応ずるかになるのではないでしょうか。
夕雲が ( の ) ( たも )うたという、禅問答のような文言をよくよく玩味して分析してみれば、意外に在り来たりの単純なことを指摘しているようにも伺える。
剣の術技には、時代を超越した普遍性があって然るべしと思う。
 
『夕雲流剣術書』ーはじめに(8)
 
針谷夕雲のこと=その8
 
針谷夕雲の弟子小出切一雲の高弟に真里谷圓四郎義旭がいて、その義旭の門人に当たる川村弥五兵衛秀東が著わしたという「辞足為経法前集」に針谷夕雲の剣法について次のような興味深い記述が残されている。
『真里谷先生云、夕雲の給ふは、能くあたるものはよくはずれ、能くはずるものは能く中るとなり。
他流は意識を専らとして、我が形に目付して、そこへ能くあてて来れども、我が流は敵の気にはずれて出る故に、よくあてて来るものは能くはずるなり。
我は能くはずれて出る故に、我が太刀はよく敵へあたるとなり。』
我流の特質を簡単明瞭に表すは得策にはならない。曖昧な意味不明な表現こそ求められたのだろう。
夕雲の無住心剣には捌く、躱す、外す等の変化の技や応じ技は基本的には否定しているはずなのだ。
そうであるならば尚のこと、解ったようで分からない。
解らないようで分かったような気になる処が味噌なのかもしれない。