老いぼれへぼ剣士の夕雲考《56》

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さあ「相抜ケ峰」を眺望できる遙拝所めがけ気合こめて再スタートしよう。
 
 
「相抜け」の技は、夕雲から一雲へ伝承された。
無学文盲といわれた夕雲先生が漢文調の難解なる真面目をよくぞしたためられたものだ。確かになぞは残る。
そして一雲は、直系の弟子真里谷圓四郎義旭へ「相抜け」の秘技を継承したことになる。
やはり、親子ほどの歳の差があった。
一雲は五十五を数え、片や圓四郎は弱冠二十五歳であったのだという。
真実の試合を仕合い、真剣で若しや「相抜け」が成り立ち得ずに終わったとすれば如何なる事態が醸し出されるのか。
もう少しいえば、一雲が圓四郎へ印可を与えたその翌日にはどのような稽古をしたものだろうか。
また此の両者の間では、真実の試合は幾度となしに執り行われたものなのでしょうか。
そんなことを考えたりして、何が何やらさっぱり分からなくなりました。
 
 
『夕雲流剣術書』ーはじめに(11)
 
 
小出切一雲のこと=その3
  
  その後、長谷川石英は深川の海辺に面する大工町に住居を遷し、名前を小出切一雲と改名した。
 そして、一雲が39歳となった1668年(寛文8年)に友人たちの勧めもあって、一人二人と弟子を迎え入れ、やがて門弟が三十人に及ぶようになった。
そうこうしている内に、小出切一雲が五十五歳を数えた1684年(貞享元年)に門弟真里谷圓四郎義旭二十五歳に真面目を授け、無住心剣の免許を授けた。