老いのひとこと

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世に同姓同名はざらにありましょう。
藩政期の江戸時代とて例外なく存在したであろうしこと前田家家臣団の中にも同姓同名の類いは多々あったのだと玉川図書館近世史料室の説明なのである。
懸案の津田伴四郎について四方八方から手を盡して調べてみた。
舟田氏からも強力なるお力添えがあって確かなる布陣で以って事に当たったが攻め倦んでしまったのです。
確かに「加賀組分侍帳」より津田伴四郎以寛( さねひろ)なる人物辿り着けた。
此の人物は嘉永元年(1848年)に養父「判大夫」より家督を相続し俸禄400石をかぞえたとある。
実の名は「新蔵」と呼んだらしい。
侍帳の記載に依れば、此の新蔵は「( かのえ) ( いぬ )」の年には二十歳であったという。
年表で「庚戌」の年を調べてみれば何のことはない嘉永3年(1850年)と出たではないか。
これにて全て『万事休する』事態に陥ってしまったのです。
急転直下、儚き夢は露と消え去ってしまったのです。
嫡男「近吾」生誕の弘化2年(1845年)の時点で弟であるべき「伴四郎」が既に15歳では話しにもならない。
但し、極めて不謹慎ながら「鉚」の先に清三郎が囲った然るべき内縁の存在もあり得ることかも知れぬが何分詮索を試みる術がまったくないのである。
 
侍帳に記載される此の「津田伴四郎」は似ても似つかぬ赤の他人であることが歴然と判明いたしたと申さざるを得ないのです。
「歴史の皮肉」とでも云おうか、「同姓同名の茶番劇」とでも申しましょうか舟田さん共々ほんの暫しの「ぬか喜び」に浸っただけであったのでした。
なお、蛇足ながら此の「新蔵」こと「伴四郎」の養父たる「津田判太夫」を詰めて行けば意外な人物に行き当たったのでした。
平家一門清盛の嫡男重盛の次男に平資盛( すけもり)がいる。
此の資盛の末裔に近江の国津田の郷に津田遠江道道供重久がいて此の者の8代目に津田判太夫可久( かく)
が実在していたのです。
天保年間には御小将頭まで勤め上げている。
同姓の津田新蔵が18歳にして津田判太夫可久の下に養子となり津田伴四郎を名乗ったことになろう。
此の津田伴四郎と近吾三兄弟の一人である津田伴四郎とは残念ながら合致する事はなかったということになったのです。
とはいえども早々に断念することなく執拗に追及する気構えだけは今後とも持続することを胸裏に誓った次第なのです。
此処に至れば、妙典寺の寺務所に長期に渡り立て籠もる意外手はなさそうなのです。