老いのひとこと

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鶴寿園陶芸教室からの研修旅行が計画された。
行き先は「九谷やきものの里」称する小松の八幡にある「深香陶窯」が主会場でした。
此の「深香陶窯」を主宰されたのが文化勲章受章者第三代浅蔵五十吉であり人間国宝でもあった同じく九谷作家の第三代徳田八十吉とは初代徳田八十吉の兄弟弟子の間柄と相成る事なんだと教えられた。
何れにしろ九谷の聖域であり何から何まで九谷オンパレードと云う感を強めた箇所でした。
それにしても金沢からの至近距離にこの様な立派な「焼物の郷」があるにもかかわらず此の齢に至るまで全く知らずにいたとは恥ずかしい限りだ。
三代目五十吉さんの娘さんが実質後継者であられ当日も我ら一行の案内役を買って下さいました。
難解な九谷の世界を噛み砕いて解説していただきわたし如き幼稚な知識のものにもはらわたに染みこむ思いで聞き惚れました。
数多くの展示物の中に異質なものを一つ見付けました。
それは、「憲吉」の署名で色紙が一枚掲げられていたのです。
「陶器を賞する人
模様釉薬を論じて
その轆轤を云う人なし
陶器第一の生命は
形にあり
形は轆轤より生る」と書いてあるのです。
憲吉を検索すれば奈良県の人、近代陶芸の父と称される人間国宝にもなった富本憲吉(1886~1963)とわかったのです。
此の憲吉は初代徳田八十吉とも親交があったらしく両者は互いに相手を結構辛辣に評し合う間柄であったという。
憲吉は八十吉を評して
「あなたは古九谷の摸写ばかりしているが、折角の名刀を持っていながら斬り方を知らないのと同然ではないか」と指摘した。
一方、八十吉は憲吉に向かって
「あなたの作は図案は結構かも知れぬが、色の調合がなって居らんそんな市販の色薬を使って焼物への知識は無いに等しい」とやり返したのだという。
この両者対抗心旺盛にして互いに切磋琢磨し合うライバル同士であったのでしょうか。
「模様や釉薬も大事だが陶器は何よりも形が命である」と主張する憲吉の言い分は判らぬでもない。
確かに九谷は五彩を駆使して華やいだけばけばしい色彩が顕著過ぎる。
何にも判らぬわたしだが憲吉説に賛同したい。
ひょっとして、第三代目浅蔵五十吉さんも憲吉説を受け入れる雅量の持ち主であったのかも知れません。
でなければ、あの扁額を自分の画廊に掲載する必要性がなくなるはずだと思ったのです。
物凄く高邁な九谷の世界に迷い込んで頭がくらくらしてしまったのだが物凄い作品に数多く接し得難き体験を頂いた次第なのです。