オイゲン・ヘルケル先生には弓を断念する瀬戸際に立たされた時がお在りであったのだという。
それを知った師匠阿波研造はヘルケル氏を真夜中の道場へ連れ出し彼の前で弓を射た。
暗闇の中的中音が響く、乙矢が離され少し異様な的中音を耳にした。
ヘルケル先生は放された二本の矢を確認したせば
何と驚く勿れ甲矢はど真ん中を射抜き乙矢は甲矢の筈(はず)を打ち砕き箆(の)の部分をも貫通し的の真ん中に達していたという伝説的神話のような逸話を自著「弓と禅」で物語っていられる。
弓聖阿波研造は弓は的を狙って中てるものではないことを弟子ヘルケルの前でものの見事に実証なされた。
これにあやかろうなんてチャンチャンら可笑しい。
まさに笑止千万、呆れて物も言えないのです。
相も変わらず本日も巻藁の前に立ち動こうと云う気配すらなかった。
無人の館ゆえそっと隠れるように的前に立ってみるチャンスはいくらでもあるのだが此の偏屈者の御当人さんは確かに目を瞑っても中るはずの大きな巻藁を射るばかりなのです。
ところが偏屈者の此のわたしにすれば珍しく新しい試みを試したのです。
甲矢乙矢に見立てて二本の巻藁矢を握ってやってみた。
つまり、一本目の矢を狙って二本目を射る。
狙ってはいけないのだから狙わずして一本目を狙う。
それがダメなのだ、全然デタラメなのだ。
やるうちに間隔が接近し偶々偶然にも擦れ合う金属音を耳にする。
子どもと一緒です、幼子の遊びこころに夢中となる。
斯くして、わたしの一日が敢え無く終わるのです。