老いのひとこと

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齢を取ってしまったのである程度どうしようもないことかも知れません。


それでもいつも強がりを云ってボケにはまだ早いし耄碌なんかしてないと自分に言い聞かせるわたくしなのです。


ところが、その自尊心が粉々に吹っ飛ぶ出来事に出くわしてしまったのです。


先日のこと業務スーパーで豆乳とヨーグルトとコーヒークリーナーにピーナツバターの買い物を済ませレジで代金を支払いいざ買い物籠の中に入れたはずの自転車の鍵を捜そうとするがいくら捜しても見当たらない。


籠の隙間からこぼれ落ちに相違ないと店内の辿った足跡を隈なく捜すが出て来ない。


店員の方を通じて鍵の拾得物が届けられていないかと尋ねるがこれも駄目だ。


物の数分の出来事にも拘らず忽然として自転車の鍵が姿を消してしまったのです。


落度は只ひたすら此のわたくし自身にあるは自明の理である。


にもかかわらず耄碌してしまったせいか拾われたであろうそのお方は然るべき箇所へ何故届け出て呉れなかったのかと不埒にも他人へ責任を転嫁いたしているではないか。


店内の人影は確かに疎らであった、数多くはない買い物客の中に一際上背のひょろ高いアジア系でもアングロサクソン系でもない3人連れの御方が混じって居たはずだ。


まさかその方々がどうこうした確証は何処にもあるはずがない。


にも拘らず、狭い了見の此のわたしは好からぬ推測を抱いてしまったではないか。


日本人なら大方拾えばレジへ届け出るはずにも拘わらず、やはりお国柄と云おうか国民性の違いがひょっとして表れたのでありましょう。


この様な事しか考えられない自分が情けなく嘆かわしい。


30分強の道のりを歩いて家に帰りスペアキーを持った家内に同乗して貰い何とか自転車も家路に付くことが適ったのです。


耄碌はしたくはないが此ればかりはどうしようもありませんでした。


最近は耄碌とは云わずに痴呆とかボケとか認知症とか表現法が変わったようなのです。


何れにしろ歳をとればヘマを仕出かす此れ耄碌と云わずに何と云おう。