老いぼれへぼ教師の回想記《18》

立山連峰をわが裏庭のように闊歩された健脚の持ち主であり、且つ又驚くべき酒豪でいられた上田栄一先生は既にもうこの世には居られない。
半世紀の疎遠であった開祥一郎先生と不思議なご縁で今年になって二度ばかりテニスに興じた。
かねてには県のランキングに名を得た祥一郎先生も寄る年波には勝てず、、かつての面影を失ったと嘆かれていた。五十年振りに祝杯を挙げた。




渡り歩いた分校生活(後)

ニュース番組には血眼で食らいついた。宝文館発行の日本の風土記全十五巻を貪るように読んだ。更には、週刊朝日ジャーナルを定期購読した。地元日刊紙はもとより毎日新聞赤旗までを定期購読した。保管したスクラップ類は既に処分したが、要は必要とする情報をいかに逸早く処理するかであろう。何時の世も変わらぬことである。
 教科書にない資料という資料を徹底的に洗いだし大学ノートにしたためた。この講義録を携えてその都度授業に出た。ボロボロに朽ち果て廃れきった愛用のノートは退職後焼却した。
当時とて、持ち上がり制を慣わしとしていたが、敢えて私は留年をたっての願いとして社会科の糸尾稔教科主任へ潔く申し出たことを昨日のように思い出す。
 晴れて念願叶い、次の年は長町分校へ配属された。幸運にも坂口哲二さん、福田孝二さん、花外健男さん野上正さんなど同年輩の社会科担当の精鋭たちが授業研究のためのサークル活動を組織されたことを知った。宿直室で幾度となしに事例研究の場が設定され、そんな中へも積極的に首を突っ込み試練の場を自らに強要した。
 暗中模索の状態から次第に雲の晴れ間に展望が開きはじめ、見透しが立つまでになった。その年度は、学年配属に関し何らコメントはしなかった。
 ところが、蓋を開けてみると三年目にしても、やはり同様に一年担任を知らされ、些か落胆したことを覚えるのである。石の上にも三年、さすがに地理学習にだけは人並みの部類に入ったと自負したのである。三年目の小立野分校は十クラス中の半分の五学級だけで構成され、上田栄一学年主任のもと、随分のんびりと過したことを記憶する。
上田先生の愛車マツダのキャロルに松本文、田村繁、中村道夫、開祥一郎の計六名の同じ学年の青臭き若武者が同乗し金沢の繁華街をはしご酒をしたことをなんともいえぬほど懐かしく思い出す。
 当時はまだ車社会の到来とは程遠い時代でお巡りさんものんびり構えていたらしく、何処からもお咎めはなかった。よくぞ、酩酊する六名が小さな箱の中に入ったものだ。吹き出したくなる。
 もっとも、その折より中心的存在として艶やかなるプリマドンナ役を演じた林夏子先生が花を添えられたのだが、少なくとも其の車の中にはいられなかった。
 東京オリンピックの年で聖火リレーのランナーを務めた金沢高校の輪島選手を分校上げてお手製の手旗で見送ったこともあった。
それでも、菊水時代から数えれば何と六年間という永きに渡り分校生活を渡り歩きながら経験したという幸せ者であり片輪者でもあって極めて変人の部類に入るのである。お目出度い奴がいたものだ。 
でも、私は私なりに十分に納得しているし満足もしている。